「葦の葉ブログ2nd」より転載
はじめに一言。今回も本文とは無関係の各地の祭りの写真を掲載しています。7月の半ば頃から8月の初め頃に行われたお祭りですが、偶々キャッチしたものばかりです。
では本題です。あいちトリエンナーレを巡る騒動は、知らぬ間に落下しつつある、現在日本の文化的、知的状況を映し出したものだと思われます。知らぬ間にと言ったのは、かつてわたしは頻繁に様々な美術展巡りをしていましたが、その後は生活に追われるようになり、長らく美術などとは全く無縁の日々を送っていたからです。
そこに突如として、日本の美術の“今”を映し出すかのような大騒動が勃発。その実態を知るや、暗澹たる気分に襲われています。騒動の直接的な責任者たる芸術監督であった津田大介氏は、もう5年以上も前だったと思いますが、NHKの朝の番組で、IT関連のコメンテータとして出演していました。津田氏は、番組では素人向けにスマホなどのIT関連のトレンドなどを紹介していましたが、その後早稲田大学の教授に就任したことを知って、愕然としてしまいました。NHKではITの専門家として出演していましたが、津田氏の話は大学のIT専門家として通用するものではないことは素人にも分かりますので、こんな人物がなぜ早稲田の教授に!!!????と大疑問が湧き上げってきました。
早稲田大学は長女の出身校ですので、長女の母校の悪口は言いたくないのですが、学術的な実績など皆無の津田氏を教授として迎えるほどに、早大のレベルは低下したのかと暗澹たる気分に襲われました。早大もついに、学術的な実績よりもマスコミでの露出度で教授を選ぶようになったのか。とはいえ、津田氏は当時もそれほど売れ筋タレントではなく、NHK出演が箔を付けたのかもしれません。NHKに出たぐらいで箔がつく!!!!????
今回の騒動では、津田氏の肩書きはジャーナリストとなっていますし、彼自身も自らさかんにジャーナリストと名乗っていますが、ジャーナリストとして彼はどんな仕事をしたのでしょうか。わたしは、その仕事をこれまで見たことも聞いたこともありません。
という具合で、大学教授、大学院教授の肩書きをもつ津田大介氏が、大学で何を教えているのかよく分からぬところに、突如として「芸術監督」という肩書きまで加わりましたが、この肩書きのおかげで、津田大介氏の実力が図らずも満天下に暴露されました。その実力のほどは、今回の騒動をめぐる報道ですでに周知済みですが、本稿では、マスコミではほとんど取り上げられていない、あいちトリエンナーレのHPに公開されている「コンセプト」の検討から始めたいと思います。
御田祭(おんださい)
「コンセプト」とはまるで広告企画書のような感じですが、内容を読むと、おそらく広告企画書としても通用しがたいものではないかと思われます。冒頭、「政治は可能性の芸術である」という、「鉄血宰相」の異名をもつドイツの政治家、ビスマルクの言葉が紹介されています。「鉄血宰相」とは、ビスマルクによる「現下の大問題は言論や多数決―これが1848年、49年の大きな間違いであった―によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」という、 「鉄血演説」に由来するものだという。
民主主義を否定し、「鉄と血」によってのみ国家の統一、統治はなされるべきだということですが、「鉄と血」とは、いうまでもなく鉄=武器、血=兵士の血、すなわち軍事力の増強を意味しています。
日本の明治憲法も、このビスマルクが制定したドイツ帝国の憲法をお手本にして作られたことは日本国民周知の事実です。日本はこの憲法を基に、天皇を頂点にいただく立憲体制下で猛烈な勢いで近代化を進めましたが、欧米と対立するに至り、世界大戦にまで突入してしまいました。ドイツも同様です。
とはいえ、強大な軍事力を背景にして初めて、分立する国家の統一は可能であるというビスマルクの示した基本姿勢および明治政府の基本姿勢は、一面では厳然たる歴史的事実であることは否定できません。しかし、本稿ではドイツや日本の近代化をテーマにしておりませんので、ビスマルクに関する政治的背景については、これ以上は言及いたしません。
ただ不可解なのは、いくら世界的に有名な歴史上の人物だとはいえ、政治家ビスマルクの言葉を紹介するに際して、その政治的背景を完全に遮断して、あたかも全く真逆の背景の中に登場させようという、そのご都合主義にはただただ唖然とさせられています。
コンセプトには、ビスマルクの「政治は可能性の芸術だ」に加え、「政治は科学的合理性だけでは理解できるものではなく、いわば芸術の領域に含まれるような直観を備えることが大切である」「政治は理屈のみで考えるものではなく、芸術とも根を同じくするもの」という政治評論家の森田実氏の言葉まで引用されていますが、芸術の祭典のコンセプト=基本概念の紹介としては余りにも異例です。
政治は科学的合理性だけの世界ではなく、非科学的=非理性的・反理性的=情動的・感情的なものであることは、わざわざ有名人の言葉を引用するまでもなく、世界の常識ではありませんか。それをわざわざ有名人を登場させて、「政治は芸術だ!」との表現に転換させているのは、本展の陰のテーマ(コンセプトの上位概念)である、「政治=芸術」に正当性を与えようとするための下手な工作ではないかとさえ思われます。
もちろん、芸術はすべからく政治性を帯びていると定義することも可能であり、同じ芸術作品でも置かれる政治的状況の違いによって、作品の相貌が変えられてしまうということも、歴史が証明していますが、津田芸術監督の下で開催された本展が晒した政治性は、そうした芸術作品が芸術作品であるがゆえに孕まざるをえない政治性ではなく、もっと単純、ストレートな政治性です。一言でいえば「政治こそ芸術だ!」ということ。これが裏のテーマ。さらに言えば、政治的プロパガンダを表現することこそ芸術だということです。
津田氏は、政治的プロパガンダ先行のこの隠された裏テーマをカモフラージュするために、「情の時代」という表のテーマを設定しています。津田氏(コンセプト)いわく、以下のように語っています。
「いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。(略)
われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。
「いま人類が直面している問題」とは、「テロの頻発、国内労働者の雇用削減、治安や生活苦への不安。」「排外主義」などが挙げられていますが、これらの諸問題を「情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけ」ることで解決しようということらしい。
「情によって情を飼いならす(tameする)」というのは、ネボケ頭でぼんやりと読むと、何か格好いい言葉のように思われますが、眠気スッキリ覚ました後に読むと、レトリックとしても成り立たないピンボケ標語であることが分かります。しかしこの言葉に騙されている識者もいるようですので、要注意です。
津田氏は加えて、事実の否定、事実の無力さをも強調し、事実によってではなく、情によって事に当たる必要があることをも訴え、「情の時代」という本展のテーマの正当性の根拠の一つにしています。ここには、津田氏の単純きわまりない思考回路が透けて見えます。
ここであらためて解説するまでもなく、「いま人類が直面している問題」を解決するためには、事実を調査し、原因を明らかにすることが解決への第一歩であることは子供にも分かる道理ですが、津田氏は「鰯の頭も信心から」的な事例を挙げて、事実の無力さを強調しています。事実の究明よりも、情による完全なる問題のすり替えですが、すり替え、ずらし戦法で終始し、底の浅い、つぎはぎだらけのコンセプトをまともに批判することには徒労感を覚えます。
しかし、芸術と情との関係は本展のテーマであると同時に、本展を批判する側にとっても要となるはずです。しかし不思議なことに、この最重要テーマについては誰も、どこも論じていないようですので、門外漢ながら、この最重要テーマについて検証してみたいと思います。
文学にせよ、音楽、絵画、映像にせよ、芸術作品を受容する側は、まず感覚的に受け入れます。特に直接言語を使わない音楽や絵画や映像作品は、特に感覚的な反応を惹起する力の大きいことは世界共通だと思います。その意味では、芸術は情とはきわめて高い親和性を有していますが、その一方、芸術作品を創作する側にとっては、情ではない、理性的、論理的な構想力は必須不可欠です。
言語化できない、ぼんやりとした感覚的、情動的、非理性的、非論理的な心(精神)の動きから作品が生まれたという話は、古代ならいざ知らず、少なくとも近代以降には皆無ではないかと思われます。それどころか古代も古代、有史以前に描かれた、今では芸術の範疇に入る洞窟壁画なども、当時にあっては人々が共有する経験知に基づく合理的な思考の印、ないしは、それらの思考から導き出された信仰の印を刻み込んだものであったはずです。
つまり物を作るということは、たとえ芸術作品にせよ、非論理的、非理性的な情動だけでは不可能だということです。先月、福岡市博物館で「スタジオジブリ展」が開催されましたが、それを見ると、子供たちに大人気のアニメ作品も、詳細な設計図を描き、繰り返し検証、計測、試作し、やっと一つの作品に仕上がることが膨大な資料によって語られていました。
商業作品なので失敗は許されないという側面はあるとはいえ、子供心をも鷲づかみにするアニメ作品も、綿密で論理的な思考によって生み出されたものであったわけです。芸術的な絵画や彫刻なども全く同様です。もしも、こうした論理的思考のフィルターを通さぬ作品があるとしたならば、それらはおよそ芸術作品とは無縁ものだと思われます。
では芸術とは何かとの反問が出てきそうですが、広告と対比すれば分かりやすいかと思います。広告も芸術も共に、人間の情動に作用する力をもっていますが、広告は商品を売るという唯一最高の目的を達成するために、その力を最大限に利用します。芸術も、かつては王侯貴族や教会(貴族、寺社、将軍や大名)などの求めに応じて創作されていましたが、現代の広告のような、商品を売るという絶対的な規制はありませんでした。
王侯貴族(貴族、寺社、将軍や大名)は、純粋に作品を楽しむために芸術家たちに作品を依頼していましたので、 王侯貴族(貴族、寺社、将軍や大名) は、現代の一般民衆の目や耳を、かなり質の高いレベルで象徴的に代表していたともいえます。現代にも残る西洋(ロシアも含む)や日本の、近代以前の非常にすぐれた芸術作品の数々は、そのことを証明しているといえます。当時の日欧の支配層の芸術鑑賞能力は、非常に高度であったということですが、日本の近代以前の芸術の源たる中国でも同様であったはずです。
ということで、現代の広告は、かつてのパトロンつきの芸術とも根本的に異なっているということです。広告でも、美的効果を最大限に追求して消費者への訴求力を高めるものもありますが、逆に、下品さで耳目を集めることもあり、商品を売るという目的さえ達すれば、広告はそれでよしということになります。
芸術作品も現代では売れなければ作家は生存できませんので、最終的には売れることを望んでいるはずですが、これは創作の動機ではないはずです。パトロンから独立した以降の近代の芸術家にとっては、作家自身が作品の核にならざるをえなくなったといえますが、その作家の世界をいかにして表出しうるかが、その作品の価値を決定づけることになりました。ここがおそらく、広告との決定的な違いだろうと思われます。つまり芸術とは、ある特定のプロパガンダ=広告・宣伝とは全く無縁のものであるということです。
では、「あいちトリエンナーレ」の「続・表現の不自由展」の作品群はどうであったのか。最も物議をかもした「慰安婦像」は、韓国の彫刻家、金運成(キムウンソン)、ソギョン夫妻が作成したものですが、「週刊文春」のオンライン記事 韓国総力取材「慰安婦像」の正体を暴く!(同記事の内、特に4ページ目、5ページ目の
米軍装甲車に轢かれた女子中学生 https://bunshun.jp/articles/-/13242?page=4
「慰安婦フィギュア」の販売も https://bunshun.jp/articles/-/13242?page=5
をご覧ください。この後半記事はリンクが切られるおそれがありますので、URLも書いておきます)によれば、慰安婦像のモデルは米軍装甲車に轢かれた女子中学生2人のうちの1人だといわれているという。事実金夫妻は、米軍に轢殺された女子中学生の慰霊碑も作ったという。
さらに驚いたことには、金夫妻は、型を使って70体近くもの慰安婦像の量産をつづけているばかりか、業者からの依頼を受け、慰安婦フィギュアまで大量に作っているという。慰安婦フィギアには、複数の業者が参入し、慰安婦フィギアの販売だけでも数億円もの売上があるという。その半分は、挺対協などの慰安婦支援団体に上納されているそうですが、当の慰安婦やその家族や遺族の方々には、それらの利益は全く分配されていないはずです。
韓国では慰安婦ビジネスが活況を呈しているばかりか、支援団体は慰安婦問題をわめき立てるだけで、数億円もの収入が入ってくるという状況からすると、慰安婦問題は永遠に解決しそうにもありません。仮に慰安婦問題が決着すれば、挺対協などの慰安婦支援団体にとっては、最強の打ち出の小槌が消滅しますので、これまで同様、決着を徹底的に妨害しつづけるはずです。しかも彼らが最高の金づると狙っているのは、言うまでもなく日本です。
金づるを見つけると、そこにへばりついて暮らすことを恥だと感じないどころか、特権だとさえ考える韓国人(朝鮮族)固有の、世界中探しても他に例のない無恥の極みの民族精神が、朝鮮王朝以来延々と受け継がれているという現実を直視するならば、日本政府は、この韓国人吸血鬼集団から日本国民を守ることを最優先にして、政策や外交を進めるべきだと思います。
津田氏ならびに本展関係者は、慰安婦ビジネスの一翼を担っている金夫妻を芸術家だと考えているのでしょうか。量産されて、世界中にばらまかれているそれらの像は、芸術作品だといえるのでしょうか。これらの像は、日本政府に対して賠償金を求めるために作られ、設置されたものであることは世界周知の事実ではありませんか。
しかも、これだけではありません。昭和天皇の写真を焼いた作品が何種類か展示されているらしい。現物は見ておらず、ネットで見ただけですが、これらの作品を見た瞬間、韓国で日本に対する抗議行動として行われる、日本の国旗や政治家の写真などを焼いたり、踏みつけたりする光景が重なりました。展示作品は生身の人間は登場させずに、スマートにぼかした表現にはなっていますが、昭和天皇の写真を辱め毀損することが創作の動機でありテーマであることだけでは明白に伝わってきます。
これらの作品の作者はいずれも日本人のようですが、なぜ日本人が、まるで韓国人の反日行動をなぞるような作品を作るのか。驚きを通り越して、不気味にすらなってきました。韓流かぶれが美術界にまで拡がりつつあるのか。津田氏は韓流かぶれ作家たちを集めてきたのでしょうか。というよりも、事実の究明によらずに、情で事を決しようという「コンセプト」に示された津田氏の思考は、韓国人的思考そのものではありませんか。
しかしこれら韓流かぶれの人々の出現は、長年にわたる日本政府、外務省が旗を振り続けてきた、日韓交流事業がもたらした成果にほかなりません。日韓交流事業では、日本人が韓国人の意を汲む、意向に沿う形でしか成立しないのは、政治から学術、芸術分野にまで一貫する不変の鉄則です。韓国人相手では、少しでも日本側が異を唱えるならば、即座に交流は対立に転化するからです。つまり日韓交流事業は、税金を使って日本人を韓流反日日本人として洗脳するようなもの。韓国に特化した交流事業は即刻中止すべきです。
折も折、トランプ大統領がまたもや北朝鮮の金正恩氏から「美しい手紙」を受け取ったとのことで、突如、日韓対立に介入する意欲を見せ始めたらしい。おそらく韓国と一緒になって日本の輸出規制を批判していた金委員長が、会談開催を匂わせつつ、日本への圧力行使をそれとなく要請したのではないかと、推測されます。金委員長の要請ならば、アメリカに対するカネの無心以外ならば何でも聞きそうなトランプ大統領のことゆえ、この推測も当たらずとも遠からずではないかと思われます。
アメリカ政府は南米ベネズエラの独裁政権に対しては、独裁を理由に、独裁政権排除に向けて露骨に介入していますが、ベネズエラはともかくも選挙が行われており、独裁的な大統領も選挙で選ばれています。対して北朝鮮は、選挙とは全く無縁の、おそらく世界でも唯一残る完全世襲制の、完璧な独裁国家です。しかしトランプ大統領は、北の独裁者は非難しないどころか、ゾッコンです。
韓国が北に禁制品を不正輸出しても非難しないだけではなく、イランやシリアに不正輸出しても非難しないどころか、韓国の不正輸出に対して対抗措置をとっている日本を非難しかねない情勢になりつつあるのではないか。 日本政府はいくら同盟国とはいえ、こんないい加減なトランプ政権(アメリカ政府)の言いなりにはならないでいただきたい。韓国からの不当な要求は断固阻止すべし。韓国に対する報復としては、日本に不法に出稼ぎに来ている、売春婦を含む韓国人不法就労者を摘発して、韓国に即刻送り返す措置をとるべきだと思います。韓国にとっては、不正輸出規制よりもはるかに打撃は大きいはず
韓国・北朝鮮のマッチポンプ より転載(8/25) 前号津田大介氏が映す現在では、言い足りない点が多々ありましたので、補足させていただきます。芸術家が権力者の庇護から離れて、独立して創作活動を営む以前(近代以前)の日欧の支配層は、非常に優れた審美眼、美的鑑賞力を有していたことは残された数多くの作品群が証明していると書いておりますが、これは一面的な見方でした。美術館や博物館等で目にする作品は圧倒的に日本や欧州のもの(建国が新しいアメリカは近代以降の作品のみ)でしたので、つい日欧と書いてしまいましたが、東南アジアや中東各国やアフリカ諸国にも非常に優れた美術的遺産や高度な技術を要する建造物も数多く残されており、それらの作品も各国、各地の時の権力者によって生み出されたものであることは、日欧や中国とも全く変わらないことに公開後、気がつきました。しかし途中で追記せずに、次期更新時に、補筆訂正することにいたしました。