「葦の葉ブログ2nd」より転載
昨日ふと、ずっと前にも九州の装飾古墳を紹介する記事を書いたことを思い出しました。そこでどこだったか確認したところ、葦の葉通信22号の後半部「3装飾古墳」でご紹介していましたが、何と1枚を除き、装飾古墳の画像19枚のリンクが全て消えていました。唯一残っていたのは、王塚古墳装飾古墳館HPのみ。消えた画像全ては、西日本新聞記事分も含めて、実際に装飾古墳の実物を写したものばかりでした。王塚古墳の実物装飾は年2回実施される見学会以外は閉鎖されており見ることはできませんが、装飾古墳館には模型展示があります。唯一リンクが生きていたのは、外部リンクでもあったこの模型古墳の写真のみでした。しかも単にリンクが切れていただけではなく、サーバー内からもこれらの画像が全て消えていました。
WordPressを使うためにサーバを変えましたので、古いデータも移転しましたが、記事と画像は同じフォルダーに入れて移転しておりますので、古墳の画像だけ転送漏れしたとも思われません。原因は今のところ不明ですが、九州の装飾古墳をめぐっては、前号古代文字が開く世界でも十分にご紹介できませんでしたし、九国博内にも高句麗の装飾古墳の画像は展示されてはいるものの、九州の装飾古墳は一枚も展示されていないという不可解な偏向もありますので、あらためて実物古墳の画像をご紹介することにいたしました。
今回ご紹介する画像は全て、1984年、弊社刊の塩見桂著・榊晃弘写真『装飾古墳のふしぎ』(在庫切れ)からの転載です。(当時、塩見、榊両氏ともテレビ西日本に勤務)グラビアページ掲載順にご紹介しますが、本文中に掲載されているモノクロ写真の中で、グラビア写真に関連するものは、その直下に掲載しています。なお地名は本書リストのまま、合併前の旧地名で表示。また、装飾古墳といえば、彩色されたものとのイメージが強いですが、レリーフや線刻という、岩石に彫刻して装飾されたものも数多く存在します。古墳時代(3~7世紀)に築造されたもの。
上・長岩横穴古墳の人物レリーフ 下・鍋田横穴27号墳のレリーフ(熊本県玉名市)鍋田横穴古墳は断崖に50基超も並んでいるという。
王塚古墳・前室左壁(福岡県嘉穂郡)。筑豊炭鉱のど真ん中にあったこの古墳は、戦前の石炭増産運動の渦中、掘削作業にともなう障害がきっかけで発見されましたが、鉱害による被害も受けた悲運の古墳でもあります。戦後は、戦後復興のために、この古墳を壊して石炭増産を進めることが日米両政府によって決定されたそうですが、王塚古墳の守護神といわれる西村二馬氏と地元民の猛反発に遭い、古墳の破壊は免れたという。しかし前方後円墳のこの古墳の前方部は、ほとんど削り取られて残っていません。ただ後円部はきれいに残っており、制限付きながら、年2回見学することができます。
以下では、本文中に掲載されているモノクロ写真です。ただし、カラー写真の関連写真はカラー写真の直下にてご紹介済み。
この石貫穴観音は、古墳時代の後の、仏教信仰が広まった8世紀頃の築造ということで、当初、ご紹介しておりませんでした。しかし著者塩見氏の、この穴観音古墳は、前時代からつづく人々の信仰の流れ、変遷を示すものだとの指摘をあらためて読み返しまして、単に時代区分だけで記載しないという判断をしたことは、本書に対し、歴史に対し、そしてわれわれの祖先に対して、まことに失礼であったと反省しましました。遅ればせながら掲載いたしました。
更新を遅らせまして、これらの写真をtwitterでも投稿しました。日本には九州を中心に、明らかに中国や朝鮮半島(朝鮮半島には古墳そのものがきわめて少ない上に、装飾古墳はほとんどありません。)系とは異なった装飾古墳が多数存在するにもかかわらず、日本の文化は全て朝鮮半島から伝わったとの韓流説には邪魔になるがゆえに、専門家からはほぼ完全に無視されてきましたので、実物写真を広く内外に発信しまして、日本の歴史を正しく構築しなおすきっかけにしていただきたいとの思いからです。(6/6)
以上で画像は終わりますが、本書に収録されている写真のご紹介ですので、装飾古墳全体からするとごく一部です。しかし、古代のお墓がこれほど多彩な図像と華やかな色彩に満ちていたことには、ただただ驚くばかり。しかもこれらの図像と色彩は、われわれ日本人の頭に刷り込まれてきた古墳の概念、イメージを一気に変えてしまうほどの衝撃をわれわれに与えずにはいません。
従来は、古墳も含めて古代の文物は全て、朝鮮半島から日本に伝わったとの説が絶対的なセオリーとされてきました。ここ20年ほど前からはこの絶対性がさらに強化され、細部にまでこのセオリーが敷衍されるばかりか、時代も一気に遡り、江戸時代まで日本は朝鮮(韓国)から先進文明の教えをいただいていたとの珍説が日本を覆い尽くしていました。そのきわめつけが朝鮮通信使騒動ですが、この通信使騒動は、日本から知性がほぼ消滅したことを象徴する出来事でした。
最近はいっときほどには通信使騒動も騒々しくはなくなったので、多少は痴呆状態から脱しつつあるのかもしれませんが、こと古代に関しては今なお痴呆状態がつづいています。しかし、上記の古墳の写真を見れば、古代の日本は朝鮮半島とは全く異なる文化的基盤を承継しつつ、それぞれの地域においてクニグニが形成されてきたことは一目瞭然です。しかも数こそは九州ほどではないものの、東北地方にも似たような装飾古墳が存在するという。墳墓の形式はそのクニや集団の文化的基盤、アイデンティティを象徴するものです。
大和朝廷は統一国家の基盤を固めると、各地の豪族に対して、巨大古墳の築造禁止令を発したという。古墳はアイデンティティを象徴するとともに、権力の象徴でもあったわけですから、統一国家を維持するためには、巨大古墳の禁止も当然の措置でもあったわけです。ただ、ここに至る前段として、大和朝廷下においても、世界文化遺産に認定されることになった仁徳天皇陵をはじめ、巨大な前方後円墳が多数造られています。前方後円墳は朝鮮半島にはもとより、中国にもない日本固有の墳墓の形です。
実はこの前方後円墳は、大和朝廷の拠点である近畿の銅鏡圏と、九州王朝を代表する奴国の銅鐸圏とが、提携、連合した結果を墳墓の形として象徴的に表したものだという、ユニークな説を古代史研究家の生野眞好氏が唱えておられます。「フォーNET」に「『前方後円墳』の起源と歴史的意義について」と題して連載されていたのですが、他に例のない前方後円墳のその特異な形態と、墳墓のもつ文化的政治的な象徴性からするならば、非常に正鵠を得た指摘ではないかと、素人ながら思います。
つまり古墳とは、当時の文化的政治的状況や特性を映すものであるにもかかわらず、日本では、朝鮮半島の古墳と似たものを探すために巨大な拡大鏡を使いながら、塵埃類を見つけ出しては嬉々としているように思われます。
そもそも朝鮮半島内(韓国・北朝鮮)の古墳は数も少なく、規模も小さい。前号古代文字が開く世界では、日本国内の古墳の数を3万と書いておりましたが、16万基ぐらいだという。ただしこの数は『装飾古墳のふしぎ』で紹介されていた『装飾古墳白書』に記載されたいたものですので、今から40年ぐらい前に調べられた数です。その後も古墳は多数発見されていますので増えているはずですが、最新の数は不明。国会図書館でもWikipediaにリンクを貼っているぐらいですので、新しい数は不明ということのようですが、Wikipediaの記述は必ずしも正確だとはいえませんので、ここではご紹介しません。
福岡城築城時には、周辺の古墳から石が持ち出されたことは知られていますが、他のお城にも古墳の石が使われて例がいくつもあるとのこと。のみならず、水田や治水のための灌漑施設にも、古墳の石が使われている例もあるという。ということで、40年前時点の残存古墳の数が16万基ということですので、おそらく20万基ぐらいはあったはずです。古墳の数は文化的政治的な特性の反映であると同時に、その築造を可能とする技術力や経済力の反映でもあったわけです。
日本の古墳の数が16万基だったとしても、20基ぐらいしかない朝鮮半島と比較した場合、数の多寡の圧倒的な差からしても、百済や新羅は、日本よりはるかに貧しい小国であったことは明白です。
日本と朝鮮半島との間に交流があったのは事実ですが、朝鮮半島のクニグニの先進性は、中国の先進技術の直移入によるもので、その技術でクニを豊かに強化するような応用にまでは至っていないのは、古墳もロクに築造することができずにいたという、古墳の現実が証明しています。
古代において、日本は中国に対しては朝貢外交を延々と続けてきましたが、逆に中国に対して日本に朝貢せよと要求したことは一度たりともありません。聖徳太子が、初回の遣隋使派遣に際し、隋皇帝と対等めいた挨拶をしたためた国書を送り、煬帝の怒りを買ったことはあるものの、日本に朝貢せよ求めたことは皆無です。その一方、百済や新羅に対しては、日本は武力で攻め入り、服属させたばかりか、その後も延々と朝貢を要求しつづけています。当時の日本にとっては、中国は敬意を表すべき相手であり、朝鮮各王朝はかなり格下と見ていたことは明白です。倫理的に問題ありなしということではなく、歴史の事実として認識する必要があるはずです。
万葉集には遣新羅使に関する歌を集めた部立がありますが、どの歌を見ても、先進文化、文明を学ぶために渡航するといった高揚感のようなものは皆無。ただただ陰々滅々たる悲痛な思いを歌ったものばかり。単なる望郷の思いや、別離の悲しみという範疇を超えた暗さに満ちているように思われます。多少は偏見もあるかもしれませんが。
遣新羅使は、欽明(きんめい)朝の571年(欽明天皇32)から、882年(元慶6)まで46回派遣されたとのことですが、記録に残る使節による往復は、全て渡航年内に日本に帰国しています。渡航した月も関係しますが、長くても翌年に帰国しています。一方中国への遣唐使たちは数年から10年、吉備真備は19年も現地に滞在して勉強し、帰国時には大量の文物を持ち帰っています。つまり、当時の遣新羅使は短期滞在で、朝貢を求めたり、朝鮮半島の経営(今風にいうならば、植民地経営)をめぐる外交交渉使節団として送られたというのが真相だと思われます。
読む人によっては、悪意に満ちた偏見だと感じる人々もおられるかもしれませんが、古代の日本は、百済や新羅から先進文明・文化を移入したといわれるものの、百済や新羅には、それを証明する古記録はもとより、遺跡や遺物も非常に少ない。さらに、古代国家形成には不可欠な国家機構(各所掌ごとの官僚組織や各種法律や場としての役所等)、領地領民の統治の基礎となる班田収授法に類する古記録や遺跡、遺物などが、朝鮮各王朝にも存在したとの話は聞いたこともありません。韓国、北朝鮮の南北朝鮮はともに、事実上、今現在も法律無用の社会ですので、おそらく古代においても法律類もなく、法律無用の伝統的体制を築いていたのではないかとも推測されます。
装飾古墳の現物写真だけでも、古代日本の文化や社会は韓国が作ったとの韓流史観が捏造であることを証明するに十分だとは思いつつ、百済・新羅絡みで少し文章としても補足いたしました。
一日も早く、韓流史観から脱する日のくることを祈りつつ、今回はここまでといたします。