「1.日韓首脳会談」は、前号曖昧模糊とした尹提案の短い続編ですが、「2.拙著の未着と背後事情」以降は、バーグルエン賞受賞の柄谷行人氏と拙著「貨幣の謎とパラドックス」の続編にあたる、本題「事実は小説より奇なり」の長い長いお話しに入ります。しかし余りにも長すぎますので、前編と後編に分けることにしました。その前編です。
目次
1.日韓首脳会談
前々号では、ウクライナ戦争に言及しながらも、国内問題を主テーマにする予定だったのですが、ウクライナ問題だけでかなり長くなりましたので、国内問題は分離して取り上げようと思い、ウクライナをテーマにした侵略から1年と題して更新しました。
しかし国内は問題山積。数日後には国内問題に的を絞ってブログを更新し、その後に、拙著の献本に関する私的テーマを取り上げる予定にしていました。しかしあっという間に1週間。国内問題を優先にするか、私的テーマを先にするか迷いが生じてきました。
時期としても尹大統領の訪日も間近。身勝手な徴用工問題で騒ぎ続けてきた韓国民の大統領として、画期的だと評されるものの、そのウラで日本企業に資金の拠出を強要する、尹提案を携えての来日です。
やすやすとこの提案に乗った岸田政権。一言いわずにはおれません。そこで、曖昧模糊とした尹提案を発信しました。16日には尹大統領が来日して、日韓首脳会談が開かれましたが、その前日には、韓国の鉄鋼最大手のボスコから、財団が肩代わりする費用のほぼ全額に相当する寄付があったとの報道がありました。
サムスンなどの大手も寄付すべきですが、必要以上の資金があると、韓国では私的流用がなされるおそれがありますので、ボスコの寄付で間に合えば過剰に寄付を集める必要はないとも思われます。
しかしこの際、徴用工問題にせよ慰安婦問題にせよ、韓国の国内問題であることを日韓両国でしかと確認すべきだと思います。
1965年の日韓請求権協定には、
「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」ことと「同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。」ことが明記されています。
詳細については、中韓の相似と相違の「日韓請求権協定全文」及び曖昧模糊とした尹提案「日韓請求権協定をめぐる新事実」をご覧ください。
また同協定第三条には、この協定に関してもしも問題が発生した場合は、第三国による仲裁委員会を設置することと、両国とも仲裁委員会の決定に従うことが明記されています。2019年に日本政府は韓国に対して仲裁委員会の設置を提案しましたが、韓国側は無視。自国の裁判所の決定の履行を日本側に求めてきました。
こうした経緯を考えるならば、岸田政権は、尹提案は国際法違反の身勝手なものであるとして拒否すべきだったのですが、岸田総理は高く評価すると表明しました。
韓国を相手にすると法治など全く意味をなさないとはいえ、日韓請求権協定の取り決めを無視するのであれば、この協定に基づいて日本政府が拠出した無償有償の資金を全額返還すべきです。
さらにこの協定以降も延々と続いた、曖昧模糊とした尹提案に列記したような日本からの超巨額支援の数々を、韓国民に向けても国外に向けても公開すべきです。そして、被害者支援と称して日本から巻き上げた資金の数々を、政府関係者や支援者などがピンハネするという、浅ましくも破廉恥な悪習も即刻止めるべきです。韓国人被爆者には、日本政府からは毎年数千万円の支援金が支給されていることも、国内外に明らかにせよ。
日韓間の問題は韓国政府によって一方的に作り出されているわけですが、その不当さに蓋をしたまま日韓の密着化を図ろうと、例によって、北朝鮮も一役買っていますね。日韓首脳会談直前には、北朝鮮はガ~ンとミサイルを飛ばして、日韓の密着化を図るというお役目を忠実かつ堂々と果たしていますが、もはや見慣れすぎた光景です。
韓国指導層の、被害者を食い物にして懐を肥やそうという、浅ましい悪習が消えることを祈るのみ。
21日には岸田総理がウクライナを電撃訪問して、G7のメンバー国としての責任を果たしたようですが、同じ頃、習近平主席とプーチン大統領との密なる関係を誇示するランデブー会談が行われました。独裁を維持するためなら手段を選ばぬ2大国の密なる連携。何だか気分が沈みますね。
では、本題へ。
2.拙著の未着と背後事情
バーグルエン賞受賞の柄谷行人氏と拙著「貨幣の謎とパラドックス」公開後しばらくして、いくつかの送付先に拙著が届いているかどうかお尋ねしましたところ、少なくとも5社には届いていないことが分かりました。
別の1社は、届いたけれど手許にはないとのことでしたが、これは届いたことが確認できた唯一の例です。全国紙は、福岡支局に送ったのであればお尋ねしたかと思いますが、東京本社に送りましたので、何のことかと言われそうなのでお尋ねしていません。
真っ先に、西日本新聞文化部にFAXでお尋ねしたのですが、しばらくして文化部の記者の方からお電話をいただきました。このお電話で西日本新聞にも届いていないらしいことが分かりました。
加えて、記者の方からは、柄谷行人氏のバーグルエン賞受賞については、西日本新聞では報じていないことも知らされました。同紙では柄谷氏の著書まで紹介していたのに信じられませんが、わたしにコメント一つ取らなかったのも当然の状況だったわけです。
さらに記者の方からは、KDPで出版した本は書評では取り上げないことになっていることも教えていただきました。一般読者にとっては、購入ルートが限られてしまいますし、それ以上に、Amazon以外の書店さんを排除する形態ですので、やむをえない判断だとも思います。
他にも、拙著は届いていないものの、思いがけないやり取りをいただいたメディアもありましたが、献本送付した十数冊のうち、Amazonからの直送分も、わたしが郵送した分も未着です。
Amazonの配送についてネットで調べたところ、未着商品については委託している運送会社に確認することになっています。どこの運送会社か分かるはずもありませんし、5年以上も前のことですので、調べようもありません。宛先には届いていないらしいことが分かれば、それ以上調べることは無意味です。
今回の拙著の献本未着がきっかけで、葦書房の献本も未着だったのではないかと思い至りました。わたしが葦書房の代表に就任して以来、何冊か自費出版本を出していますが、私家版以外は全て、新聞各社(全国紙の場合は福岡支局)には献本していますが、一度も紹介されたことはありません。
基本的には内容の問題だったのかもしれませんが、最後の新刊出版になった2019年1月10日刊の、宮本一平著『炭都物語―イヌとハトと三池炭鉱』は、小説の形態を採っていますが、戦後の三池炭鉱での暮らしを描いた実録物(ノンフィクション)でもあり、資料としても非常に希少。もちろん、小説としてもとても面白い。
炭鉱以外の周辺地域の様子も描かれており、かつての有明海の活気に満ちた漁の様子も活写されています。その場で暮らした者にしか書けない、有明海のピチピチと命跳ねる様子が、文字通りの「宝の海」そのもののとして描かれています。
先日、諫早干拓事業をめぐる裁判で、最高裁は漁業者側の上告を退ける判決を出しました。まさに日本の漁業潰しの判決ですが、本書を読むと、命に満ち満ちた宝の海が、無残にもギロチンによって断首されたことが背光から映し出されるように眼前に浮かび上がってきます。
参照:アサリ産地偽装と諫早湾ギロチン / 漁業衰退は国策か?
それほど貴重な本でありましたが、どこも紹介してくれませんでした。
本書の主舞台は炭鉱ですが、山本作兵衛さんに代表される炭鉱関連本は戦前が中心でしたので、戦後の炭鉱での暮らしを内部から描いた作品は皆無に近いはず。無名の著者の作ですが、非常に希少だと思い、西日本新聞には、文化部と都市圏版宛て2カ所に献本しましましたが、一文字も紹介してもらえませんでした。
当時は、わたしは遠慮会釈無くマスコミ批判をしていましたので、マスコミから嫌われ、憎まれているので、せっかくの貴重な本も紹介してもらえないのかと思い、著者に申し訳ないと心の中で謝っておりました。
しかし拙著の献本が未着だと分かったことで、ひょっとして、葦書房の献本も宛先には未着だったのではないかと思えてきました。その可能性は大いにありそうです。
しかし、こういう事例はそう頻繁に発生していないはずです。頻発しているのであれば、社会問題になっているはずですので、話題にもなっていないことからすると、限定された対象にのみ発生しているのだろうと思われます。わたしはその事例の一つだと思いますが、福岡市内でも東京都内でも未着が発生していることからすると、何か広範囲なネットワークが存在しているようにも思われます。
とはいえ、それが何なのかは特定することは難しい。
3.名前が勝手に変えられる
実は、この献本未着問題に気がついた頃、別の不可解な事象にも遭遇しております。話題が非常に飛躍しますが、同居している長男の名前(姓)が勝手に変えられるという出来事に遭遇しました。
そんなことを公の場で書くことなのかと思われるかもしれませんが、わたし自身が長年に渡って同じ出来事を経験してきました。しかもその書き換えられる姓が全く同じ「福本」という文字によるものです。
「フクモト」といえば、一字違いの同音の、福岡では非常に有名な、全国的にも知る人ぞ知る人物名と同じです。が、もちろん本家「フクモト」氏は全く関知していない事象だと思います。
わたしの姓が「久本」ではなく「福本」と書き換えられる事象には何度も遭遇しておりますが、初めての事例は、2001年、見も知らぬ東京で出版事業を始めた頃のことです。面識はないものの、出版業界関係者の方とメールでのやり取りをしていたところ、わたしは「久本福子」と自分の名前を記載してメールをお送りしておりましたが、お相手からは「福本久子様」との記名がなされていました。
ぎょっとしましたが、組み合わせを間違ったような文字列ですので、意図的なものだとは思わずに間違っている旨お伝えしました。しかしその後も別の方面からも同様の記名がなされる事例に何度も遭遇しています。出版業界とは無関係のところからも同様の名前の書き換えがなされていました。
何度も同じような事例に遭遇するとうっかり間違いではなく、意図的なものだと考えざるをえなくなりましたが、なぜ「福本」なのか、その意図が全く分かりませんでした。
しかし、この名前の書き換えは、ごく身近なところでも発生しています。葦書房の事務所の大家さんまでもが、わたしの姓を「福本」と書き換えた年賀状を送ってこられたのです。
事務所賃貸には、代表者であるわたしと大家さんないしはその代理人との間で契約を交わしますので、当然、大家さんは店子の代表者で保証人でもあるわたしの氏名はとくとご存じです。何度も直接お目にもかかっています。
余り詳しく書くと、大家さんが特定されると困るので概略しか書きませんが、この時はさすがに非常なショックを受けました。大家さんにはすぐさま、姓が間違っている旨をお伝えすると、すぐさまお詫び状が届きました。
大家さんがなぜわたしの姓を書き換えたのか、その事情は不明ですし、大家さんになぜお間違えになったのかまではお尋ねしませんでしたが、わたしの名前の書き換えは、少なくともわたしが認知しうる範囲では、これ以降は発生していません。
代わって、ネットへのパラサイトが始まるのですが、ネット移行後は、リアル世界での不可解事には、目に付く形では遭遇することはほとんど発生していませんでした。
そんな中で、突如として長男の姓が「福本」に書き換えられるという出来事が発生しました。しかも準公的な文書での「福本」姓の書き換えでしたので、ただただ驚愕。
不可解な事象が、リアル世界でもまだ続いていたのかという衝撃と、かつてはわたしにのみ発生していた名前の書き換えが、長男に移ったことへの衝撃は大きく、なぜ長男が「福本」なのか。その狙いは何なのか。想像もできませんので、その分かえって不気味さが募ります。
我が家には狙われるような財産、資産はゼロ、葦書房も閉鎖間近で、カネになりそうなものはゼロ。というよりも、葦書房は閉鎖するしないにかかわらず、カネ目のものはゼロ。
実は長男に関しては、今から十数年前、事務所が赤坂にあった頃に、奇妙な事を知らされていました。
長男は久本一魔という名前ですが、「魔」を使った「カズマ」は非常に珍しく、おそらく同名はいないだろうと思われます。この名前は三多がつけたもので、夢野久作ゆかりの名前です。わたしは正直なところ、ちょっと不吉な感じもしましたが、久作ゆかりならばいいかと思いましたし、「魔」をもって「魔」を制する強い名前だとも解釈出来ましたのでOKとしました。
また、久本という姓もありそうですが、めったにない名前です。昔々、三多に聞いた話ですが、福岡市内には久本姓は他には1つか2つぐらいしかいないと言ってました。電話番号が全登録されている、分厚い電話帳が各家庭に配布されていた頃のことでしたので、電話帳で調べてみると確かに1,2例しかありませんでした。
現在の様子は分かりませんが、もともと珍しい久本姓に、「魔」を使った「カズマ」はそれ以上に珍しいはずですので、久本一魔という名前は日本中探しても滅多にないはずです。
ところが、福岡市早良区に同姓同名の「久本一魔」という名前の若者がいるということを、ある確実な筋から聞きました。今から十数年前のことでした。どこのどういう若者なのかは確かめませんでした。当時は借金に追われていて、それどころではありませんでした。
言うまでも無く、長男は早良区には住んだ事もありませんし、大学も京都と東京でしたので、いかなる意味でも早良区とは無縁です。長男だけではなく、3人の子どもたち全員が早良区とは全く無縁です。
「福本」姓への改竄に遭遇して、思い出すのもうっとしいあれやこれやが、一気に思い出されてきたのですが、そういえば、三多が死去してしばらくして、西日本新聞だったかに、福岡在住のある著名な文化人(その方が特定されぬようにあえて使っています)A氏が書かれた、死去した三多をめぐる驚天動地のエッセイを思い出しました。
そのエッセイには、三多はまだ1歳ぐらいの幼い子どもを残して亡くなったということが書かれていました。100%ありえぬことで、三多はわたしとの間に生まれた3人の子ども以外には子どもはいません。これは強く断定しておきます。
A氏は福岡在住の著名な文化人(全国的にも専門家筋にはよく知られた著名人)ですので、双方知ってはいるはずですが、特段のお付き合いはない方で、お付き合いの有無でいうならば、A氏はむしろわたしの方がまだしも交流圏としては近かった方です。
わたしをよく知っているはずなのに、よくもこれほど事実ではない話を発表したもんだと驚きましたが、おそらく誰かから吹き込まれたことをそのまま信じて書いたのだろうと思います。同じ文化人でも三多と付き合いのある方ならば、こんな話は信じないだろうし、吹き込まれることもなかっただろうと思います。
ただし、A氏は頭脳明晰に加え、人柄もとてもとてもよく、この方に悪意を感じる人はほとんどいないだろうと思われる方なので、ご本人の意図せざるところで、事実を知らないまま、エッセイを書くことになったのだろうと思われます。
当時、三多の死の前後、余りにも異様な出来事が次から次へと押し寄せてきて、この記事もその一つだとは認識したものの、個人では対処のしようがないという気持ちに襲われていました。
以来、30年近くが経つのですが、今回の長男の姓改竄で、A氏のエッセイについても思い出すとともに、早良区に久本一魔という名前の若者がいると聞いた時には、このエッセイについては思い出さなかったことも思い出しました。
両方を同時に思い出した今、A氏がエッセイに書いていた1歳の幼子は、ひょっとして、早良区に住んでいたという、久本一魔という名前の若者だったのではないかと思い当たりました。
と書くと、何かミステリーじみて信じてもらえないかもしれませんが、全て事実です。この事に気がつくと、長男の姓改竄は、早良区に住んでいた長男と同姓同名の久本一魔という名の若者の存在と関係していると考えざるをえません。
わたしの名前を「福本」に改竄することを諦めた代わりに、長男の名前を「福本」に改竄したことになります。直接的には、少なくとも30年近く前のA氏のエッセイから続く工作が、今現在も執拗に続いていることになるわけです。この事実に気づいた時は、その執拗さに恐怖に襲われ、夜も眠れない日々が続きました。
しかし眠れぬ夜は何時までも続くはずはなく、今では熟睡の日々を送っておりますし、このおぞましい出来事のレポートを書く余裕も出てきました。
4.ISBNファイルが消えた
そして、どうやら以前とは異なった状況が展開しつつあるらしいと気づいたのですが、わたしの想定を越えた方向に向かいつつあるらしいことにも気づかされました。
この気づきは、バーグルエン賞受賞の柄谷行人氏と拙著「貨幣の謎とパラドックス」で拙著を紹介する際に、ISBNを記載しようとしたものの、確認ができなかったことがきっかけです。
自分で出版ができるAmazonのKDPでは、ISBNも記載しますが、登録本の管理はISBNではなく、Amazonから自動的に付番された記号に依っていますので、管理画面ではすぐにはISBNの確認はできません。
紙製本は手許にある拙著の奥付で確認してブログに転記しましたが、電子本はKindleの中にあるのでKindleで確認しようとしたところ、Kindleが見つかりません。Kindleは、他のタブレットやスマホなどと一緒に、充電機のある一角に置いていました。ここは、使用中、未使用分も含めたモバイル系端末の定位置です。
しかしKindleだけが消えていました。Kindleを動かすことはめったにないのですが、不可解に思い、あちこち探しました。しかしどこにも見つかりません。ブログ執筆中だったので、Kindle捜索は中断して、葦書房のISBN記録ファイルを見て転記しようと思い、ファイルを取りに行ったのですが、なんと、このファイルまでが消えていました。
拙著は、わたしの個人出版の形になっていますが、ISBNだけは葦書房のISBNを使いましたので、このファイルに記録しておりました。紙製本と電子本とはそれぞれ別のISBNになっています。
このISBN記録ファイルは、ISBN制度が始まって以来の葦書房のISBNが記録されており、他のどんなファイルよりも大版ですので、探すまでもなく、一目でファイルの所在が分かります。とはいえ、このファイルが必要だと思って棚を見なければ、ファイルは特段、目に止まることはありません。
2019年に『炭都物語』を出版して以来、久々にこのファイルを出そうとしたのですが、この時初めて、ファイルが消えていることに気がつきました。大きいので、どこかに紛れ込んでいたとしてもすぐにみつかるはずですが、どこを探しても見つかりませんでした。
いったいなんで、ISBNファイルまで消えたのか、想像もつきませんでしたが、ブログ執筆中だったので、ISBNを記載するかどうか迷っていました。Amazonでの購入には不要だとは言え、現在の出版物販売には、ISBNの記載は必須です。
電子本を購入すれば、多分確認できるはずですが(ISBNの確認は紙も電子も今回が初めて)、Kindleの行方が不明のままでは、とても購入する気にはなれませんでした。それで、電子本だけISBNなしのままの公開になってしまいました。葦書房刊ではないので、ISBNを管理している書協には登録していませんので、他では探しようもありません。
しかしこのままでは、わたしが本書の著者であることを疑われるかもしれないとも思い、公開後もかなり探しましたが、どちらも見つからないままです。今も、電子本だけISBNなしのままです。
これが災いしているのか、バーグルエン賞受賞の柄谷行人氏と拙著「貨幣の謎とパラドックス」公開後は、拙著のAmazon KEPでの売上も激減しています。
しかも、紛失物が他にもあることに気がつきました。その一つが、純真女子短大在職中に執筆した「戦後女流文学論」(自作ながら正確なタイトルかどうか?)が収録されている、藤原書店刊『女と男の時空 現代編』です。
短大では本名の久本福子を使っていましたが、原稿発表には旧姓の明石福子をペンネームに使っていましたので、肩書きは純真女子短大助教授、名前は明石福子になっていました。学生が見たら、別の人だと思ったかもしれません。
短大を辞めた後、本書の並製版(廉価版)が出ましたが、こちらの肩書きは無になっていました。この廉価版も消えていますが、元の原本はかなり厚みがあり、あればすぐに目に入ります。が、こちらも、今回のファイル紛失などに連動して、消えていることに初めて気がついた次第です。
ただし、藤原書店から関連本として出版され、著者献本として送られてきた『年表 女と男の時空 日本史』は棚にありました。
拙著は他にもありますが、消えたのは本書のみ。これが何を意味するのか、不可解です。
本書は購入すれば手に入りますが、著者献本は初版です。今も初版が残っているのかどうか、廉価版が出たぐらいですから、初版は残っていないとも思われます。
実は昨年、引っ越しました。荷物の梱包は自分たちでやって、搬出と搬入だけを業者に依頼しましたが、ひょっとして引っ越し時に抜かれたのかもしれないとも考えました。しかしISBNファイルと同じ棚にあった物は全て揃っています。消えたのはISBNファイルのみ。
5.奇妙な紛失物
と思っていたのですが、先日、確定申告をするための作業をしている際にも、紛失物があることに気がつきました。とはいえ、申告に関わる経理関連資料ではなく、経理資料と同じ棚に並んでいた本や、来歴に関する資料です。何の来歴なのかは、さらなる悪用を防ぐために具体的には書きませんが、紛失していることが分かった当座はかなりのショックを受けた資料類です。
他にも、葦書房の古い経理関係書類なども消えていましたが、その横に並んでいた物品は消えずに残っています。
紛失本は何冊かある原発関連本の中の1冊、『4つの「原発事故調」を比較検討する』です。本書は、原発事故の実態を詳細に検証した拙著『原発事故と巨大地震の正体』の参考文献の一つですが、4つの「原発事故調」報告書を比較検討するというやや専門的で、他に類書のない貴重なもの。非常に鋭い論考も収録されています。
これらの紛失物が同じ箱に梱包されていたのであれば、偶々その箱が紛失した、消えたと考えられますが、紛失物のすぐ横、隣にあったもの=本や資料類は全て揃っています。しかも紛失物は同じ書棚ではあるものの、収納場所は数段離れた場所に並んでいました。
ということで箱ごと消えたのではなく、紛失した特定のものだけが抜き出されたと考えざるをえない状況です。紛失物が同じ箱に梱包されて、その箱ごと消えたのであれば、引っ越しの際に何らかの事情やアクシデントで、あるいは意図的に消えた、消されたことになり、まだしも状況としてはありうることと解釈することも可能です。
しかし消えたのは、箱に梱包する前、あるいは箱から出した後だと考えざるを得ない状況です。梱包する前には、不要品を処分するためにあらゆる場所の総点検していますので、物品の場所もよく記憶しています。梱包は長男と二人でしましたので、梱包時に消えるということはありえません。
ということは移転後に消えたということになりますが、そんなことがありうるのか。ありうるとしたら、これほど不気味なことはありません。しかしこの不気味さを第三者に納得してもらうことはほとんど不可能です。
Kindleにしても、かなり昔に買ったもので、『貨幣の謎とパラドックスー柄谷行人論』の電子版が入っているので、わたしにとっては非常に貴重なものですが、中古品としての価値はゼロ。しかも中古品としては、Kindleよりは多少は価値がある他のタブレット類は消えずにあります。
余り細々と紛失物をご紹介するのもどうかと思ってためらっていたのですが、もう一点、奇妙な紛失物がありました。
お亡くなりなられた渡辺京二氏に関するものです。わたしの代になってから、東京の出版社2社から渡辺氏の著書の文庫版が出版されました。版元から寄贈されたこの2冊も消えていたのです。これも購入すれば簡単に手に入りますが、寄贈時と同じ初版本の入手は不可能です。複数本あったものは処分しておりますが、1冊は保管しておりました。
一般的には盗難とは呼べないような奇妙な物品の紛失事件ですが、ある共通点で繋がっていることに気がつきました。
その気づきについて書くに当たって一言お断りしておきます。余りにも荒唐無稽すぎる内容ですので、正気を失なったのかと思われるかもしれません。それぐらいありえない状況説明となりますことをお伝えしておきます。
では、かなり長くなるかもしれませんが、荒唐無稽と誤解されそうな出来事を以下、ご報告させていただきます。
6.成りすまし工作
気づきの内容を一言でいえば、「成りすまし」工作が進行中なのではないかということですが、この説明をするに当たっては、2段階に分けて説明いたします。
1段階目は、わたしが葦書房の代表に就任して以降のことです。就任当時は社員が全員辞めたということもあり、わたしの代表就任を各社揃って大騒動として賑々しく報道していました。大騒動報道も収まり、大借金と格闘しながら葦書房の倒産だけはかろうじて食い止め、渡辺京二さんの著書を筆頭に在庫本の販売に力を入れていた頃だったと思います。
ネットの検索をする時間も出てきた頃で、葦書房で検索したところ、現在の社長は、前任者の三原氏の奥さんと書かれていたり、古本屋の葦書房の社長宮氏の奥さんと書かれていたりしたのを目にし、驚いたことがありました。
わたしや葦書房を知っている人は誰も信じるはずのない荒唐無稽すぎる記事ですし、名前を使われている人たちにとっても迷惑至極な事態であるのは明らかです。いったい誰がこんな荒唐無稽な作り話をネットに上げているのか、想像もつきませんでした。
実は、わたしや長男の名前のみならず、わたしや長男の存在そのものを別人のように変えようという動きは、その淵源を辿るならば、久本三多の死の前後にまでたどりつきます。
日本ではもとより、世界でもおそらくほとんど例のない、人間乗っ取り作戦とでも呼びたくなるような動きが、密かに展開されていたのです。
渦中にあった当時は、その動きに恐怖を感じる以外になすすべもなかったのですが、長い年月が経った今は、距離を置いて事態を思い返すことが可能になっています。
7.久本三多の死をめぐる真相
(1)余命一月を宣告された三多
ここからのお話しは、わたしと三多との関係を書かなければご理解できないかと思いますので、簡単にご報告させていただきます。わたしと三多は昭和46(1971)年8月に結婚、3人の子どもを授かるも昭和61(1986)年8月に離婚。わたしの籍だけを抜いて子どもたち3人は三多の籍に残しています。わたしの姓も久本を使うことにしました。三多本人もそれを望んでおりました。
離婚はしたものの、わたしと三多の関係は切れたわけではなく、関係はその死に至るまで続いていました。余り例はないかもしれませんが、わたしと三多との特異な関係を頭に入れて、以下のレポートをお読みいただけたらと思います。
三多は平成6年(1994年)6月8日に亡くなりましたが、三多の死や死因をめぐっては、嘘八百の話が「追悼録」や一部メディアを介して拡がっています。唯一真相を知る立場にあったわたしには誰も取材しませんでしたし、尋ねることもなかったので、適当な嘘八百が公の場に拡散されることになりました。
三多は、平成6年(1994年)1月、正月明けを待たずに、会社の近くにあった逓信病院に検査入院しましたが、この検査入院直前に、三多は皿山の自宅に戻ってきて、医者がうるさいので検査入院するけれど、検査だけだから心配しなくていいと話していました。
実は、年末の検査入院の一月ほど前だったか、医者から肝臓の検査に来いといわれているけれど、心配はいらない。ある確かな筋からの勧めもあって、海外(国名はあえて伏せておきます。)から肝臓によく効くという薬(詳細は伏せます。)を毎月取り寄せて飲んでいるので、大丈夫だとも話しておりました。
その後の事態が分かれば当然だったとはいえ、三多はこの頃すでに肝臓の不調を自覚していたわけですが、肝臓病的な顔色の悪さは、結婚した当初から(その数年前の初の出会いの頃)からの特性でしたので、後に知ることになる非常に深刻な事態に立ち至っているとは夢思わず、大丈夫という三多の言葉を信じていました。
しかし、検査入院して1週間ほどして、逓信病院の三多の主治医からすぐに来るようにとの連絡が入りました。すぐさま病院に出向いたところ、思い出すのも恐ろしい検査結果が告げられました。
医師の口から伝えられたのは、「余命一月」という死の宣告でした。とても信じられるものはありませんでしたが、主治医は余命一月と診断した理由を、肝臓のレントゲン写真などを示しながら、詳しく話してくださいました。
その内容をここに書くべきかどうか迷っています。わたしの成りすましさんに悪用されるかもしれないからです。しかし事実を伏せたままでは書く意味はないとも思いますので、書くことにいたします。
診断は、浸潤性の肝細胞ガンだとのことで、肝臓全体に小さながん細胞がまさに浸潤するように拡がるガンです。レントゲン写真には、その名称そのままの無数の小さなガンが肝臓全体を覆い尽くしていました。
余命一月ということは、もうはや治療の方法はないということでした。わたしも乳がんの摘出手術を受けていますが、三多の場合は、固形様の一般的なガンとは違って、肝臓全体を小さなガンが無数に覆っており、摘出手術はできないタイプのガンだとのことでした。レントゲン写真を見ると、素人目にも、摘出手術はできないということは了解せざるをえませんでした。
肝臓移植はできないのかとお尋ねしましたが、肝臓移植も不可能なだとのこと。他臓器への転移も始まっているし、手術をしても、がん細胞が拡散するだけだとも言われました。
この恐ろしい結果を聞く中で、医師からは、三多の立場上、結果を完全に伏せることはできないかと思いますが、どこまで話すか、余命一月まで伝えるかどうかについても尋ねられました。わたし自身、この結果を受け止められずにおりましたが、余命一月までは伝えないでくださいとお願いしました。症状については本人にも自覚はあるでしょうし、自覚せずにはおれない状況ですが、余命一月とは余りにも残酷です。
子どもたちは、お父さんが入院していることは知っていましたが、子どもたちには「余命一月」とは伝えることはできませんでした。
しかしわたし一人ではこの結果を受け止めることはできません。長崎にいる三多の長兄に連絡しました。長兄も驚愕して、症状を詳しく知りたいと言ったので、わたしは長兄と一緒にあらためて主治医の説明を伺うことにしました。
当然のことながら結果は同じです。先生は、長兄にもレントゲン写真を示しながら、余命一月と診断した理由を説明されました。
その後、長兄と葦書房をどうするか相談したのですが、昔からお世話になっている三原さん(三原浩良氏)に相談することにしました。当時三原さんは北九州市にある毎日新聞西武本社に勤めておられました。三原さんは長らく西部本社の要職を務めておられましたが、定年を迎えた後、嘱託として勤務を続けておられました。
三原さんは、昔は福岡総局勤務でお住まいも福岡市内でしたので、子どもが小さい頃はお宅に何度もお邪魔して、親しくお付き合いをしていただいておりましたが、葦書房にとっても、長い間、巨額の借入金の保証人を続けて葦書房を支えていただいたておりました。
そのお礼という意味もあったかと思いますが、三原さんには校正料のような形でまとまったお礼を続けておりました。こうした事情は概略三多からは聞かされていましたが、わたしが葦書房の経営を継いだ後確かめたところ、三原さんは三多存命中の最新の借り入れの保証人も務めていただいていたことが分かりました。また、三原さん以外には保証人を続けてくださった方はおられませんでした。
わたしが、三原さん以外には相談する人はいないと判断したのも当然のことだったわけですが、長兄も即座に同意してくれました。
時間がないので長兄と別れて帰宅、すぐさま三原さんに連絡しようとしたのですが、子どもたちには絶対に聞かせられません。自宅から離れた場所にあった公衆電話からかけて、三原さんに余命一月も含めて事情をお伝えしました。話しているうちに、それまで信じられずにいた、余命一月という宣告が現実であることが胸に迫ってきて涙が出るどころか、声を上げて泣きながらの電話になってしまいました。
ところが翌日、病室に行くと、三多からは開口一番、「なんで三原さんに話したんだ」と叱責されてしまいました。なんで怒られるのか理由が全く分かりませんでしたが、不機嫌そうな様子をしている三多には、その理由を聞くのもはばかれ、なぜなのかは本人の口からは聞けませんでした。
この後、わたしが病室を出て玄関付近にまで来た時、三原さんが入って来られるのが目に入りました。三原さんに連絡したことで三多から叱責されたばかりだったので、声をかけることはできませんでした。余命一月と聞かされたばかりですので、三原さんにとっても平静ではいられない状況です。
ちらっと目にした三原さんの横顔からも、何か暗い切迫したような雰囲気が瞬時に伝わってきました。周りに視線を動かす余裕もない、前方の一点を凝視しているような様子でしたので、わたしにも気がつかなかったのだと思います。
ちらっと目にした三原さんの深刻そうな様子からも、三原さんには伝えるべきではなかったのだと感覚的には分かりましたが、何か具体的な問題には想像が及びませんでした。
その後、三多の死の前後の頃から始まった異様な事態の展開を経る中で、三原さんはわたしが想像していたような善良な人ではなく、かなりの策士ではないかと思い至り、その本性を知っていた三多は、心の底では三原さんを信用しておらず、三原さんに連絡したことを怒ったのではないかと解釈しました。
しかし長い時間が経った今では、三多の病状が重篤なことを知った三原さんから、債務保証の解除を言い出されることを恐れていたのではないと思い至たりました。あるいは、新たな借り入れの保証人にはなってもらえないことを、深刻に心配していたのかもしれないとも思っています。
ある時期まで、三多はガンを抱えたまま数年は生きると考えていたからです。身近に、その前例がありました。葦書房とは古くからお付き合いのある画家の働正さんが、1,2年前から肝臓ガンで入院しておられましたが、働さんのガンは三多のガンのタイプと似たものでした。
実は働さんが肝臓ガンだと診断され、お住まいのある大牟田市内の病院に入院なさる際、三多がお世話した関係もあり、その病状についても詳しく聞かされていたようです。わたしは三多から聞いただけですが、細胞ガンという、細胞に拡がるタイプの何か珍しいガンだとのことでした。(ネットで調べたところ、肝臓ガンでは珍しくはないガン種だとのこでしたが。)
わたしはこの時初めて細胞ガンという名前を知ったのですが、わたしが三多の主治医から聞いたガン種の名称とはやや異なるものの、わたし自身も経験済みの、触ると硬い固形的なガンとは異なり、細胞全体にぼやっと拡がるという点では似ていました。
その働さんは退院はできなかったものの、入院生活を続けながらも三多の死後も生存を続け、入院から、3、4年年ぐらいはその生を延ばされました。
三多はこの働さんの話もしていましたので、ある時期までは、自分も入院しながら、少なくとも数年は生きながらえるだろうと考えていたようです。しかし仕事を続けるにしても、借入金の保証人は必須不可欠です。その保証人は三原さん以外にはいませんでしたので、その三原さんに断られたら万事休す。
三多の叱責の最大の理由は、これだったと思います。わたしも、保証人探しに苦労した後では思考の幅も拡がりました。
(2)2度の危篤を克服
この出来事から数日後、三多は皿山の自宅に一時帰宅しました。三多の顔色も非常によく、「余命一月」という主治医の宣告が信じられないほど、元気そうに見えました。
当時クロという、娘が拾ってきて飼っていた全身まっ黒な犬がいたのですが、三多を見るや尻尾をふりながら飛びつきました。三多はしばらくクロを相手にした後、家に入ってきて、新年の挨拶回りに行く予定だとその予定表を見せてくれました。
予定表を見ると、挨拶回りは3,4日も続くらしい。いくら元気そうに見えるとはいえ、こんなことしても大丈夫なのかと心配になってきましたが、主治医の許可を得ているとのことでした。
しかしそれからほどなく、この心配が的中しました。突如、大量の下血が始まりました。バスタオルを何枚も重ねて、やっと止めましたが、三多からは、病院より先に、挨拶回りを全てキャンセルすることを会社に連絡するように言われました。経理のSさんにその旨伝え、すぐさま病院に連れていきました。
病院に着くと、新たな下血が始まりました。このまま三多は命尽きるのではないかと、恐怖を覚えるほどの下血でした。が、病院での処置で間もなく下血も止まりましたが、この日から最期の時にまで続く、三多の本格的な入院が始まりました。
それから数日後、主治医から危篤を告げられました。すぐさま、当時海外にいた長男にすぐさま帰国するようにと伝え、三多の母と長崎と静岡にいる二人の兄にも連絡しました。
長女と次男は父親の病床の側に見舞っていましたが、長男も帰国するやすぐさま父親を見舞いました。母と二人の兄は夫婦揃って駆けつけました。家族全員が揃っているのを見ると、三多は自分の死期が近いことを悟るかもしれないとは思いましたが、やむをえません。
ところがこの心配とは裏腹に、家族全員の顔を目にした後、三多はみるみるうちに元気を取り戻し、余命一月という関所を軽々と飛び越えていきました。
しかしガンが消えるわけではありません。食道静脈瘤破裂という、肝臓ガンから派生する事態に襲われました。すぐさま処置をしていただき、症状は収まりました。しかし突如、転院の話が出始めました。
三多には、余命一月という、治療の方法がないほどにガンが進んでいることまでは伝えられていませんでしたので、ガンの専門病院で治療を受けたいという思いは、この頃はまだもっていたのだと思います。
三多は、皿山の自宅にも近い九州がんセンターへの転院を望んでいました。しかし、福岡市民病院に肝臓の名医がいるとの話が入り、博多区にある市民病院に転院しました。
以降、静脈瘤破裂は発生しませんでしたが、市民病院の主治医からも、もはや治療の方法はないとはっきりと言われました。
それからしばらくして、市民病院の主治医からも危篤状態であることが告げられました。すぐさま三多の母と二人の兄に連絡しました。子どもたちは全員揃っていましたし、母もすぐさま駆けつけました。長崎の長兄は夫婦そろって駆けつけましたが、遠方の静岡にいる次兄は、今度は一人でした。
三多の枕元に揃った全員が、もうこれで最期になるだろうと覚悟していたと思います。しかし今回も奇跡が起こりました。三多は、家族全員が揃っているのを確認した後は、またもや元気を回復。家族全員が揃った様子を見るのが、三多には最高の薬になっているらしいことに気づかされました。
事実、三多は、余命一月を5倍以上もの6月8日まで生き延びました。しかしその延命の末期には、想像を絶するような異様な展開が待ち受けていました。
実は、市民病院に転院してからしばらくして、奇妙な物が目に入るようになりました。以前の逓信病院ではありえなかった現象ですが、その後に起こる異変に比べるとささやかな異変だともいえるほどのものでした。
しかし今思い返すと、市民病院ではすでに、その後に露骨になる人間乗っ取り(瀕死の病人乗っ取り)工作が始まりつつあったのではないかと思います。当時は夢想だにしていませんでしたし、ここまで露骨に認識したのは、今をこれを書いている渦中のことです。それぐらいありえぬことで、人間の想像を超えた事態が待ち受けていたわけです。
市民病院は、がんセンターよりもこの異様な工作がやりやす場所として、本人の希望を無視して選ばれたのではないかと今になって思います。とはいえ、市民病でも入院した当初は異変らしきものもなく、静かな環境が保たれていました。
わたしは三多が入院して以降は、毎日病院に行ってました。市民病院でも同様です。
(3)異変のかすかな兆し
2度目の危篤が告げられ、家族全員が集まってからしばらくして、三多とは個人的に非常に親しい、元葦書房の社員で長崎大学の後輩でもあった小屋光生さん(「Kさん」と書いていましたが、色々と誤解を招くかもしれませんので、実名表記に変えました。4/6)から、そろそろ葬儀の準備をした方がいいのではないですか。わたしが手配しましょうかと言われました。正直、びっくりしました。余命一月と告げられていたにもかかわらず、三多の死を具体的にはイメージできまないまま、毎日、病床の三多と対面していたからです。
確かにそう遠くない時期に最期の時が来ることは避けがたいとはいえ、家族全員の顔を見るとみるみるうちに元気になる三多を見ていると、まだまだ生き延びるはずだとの思いが強くなりますし、葬儀の準備などをしたら、死期を早めるのではないかとの思いもあって、小屋さんにはまだまだ早いといって、その申し出を断りました。
しかし今現在思うのは、この時、わたしの方で、葬儀の準備だけでもしておくべきだったということです。Kさんが葬儀の話をしたのは、当然のことながら、三多からの依頼を受けてのことだったはず。
わたしは余命については一切触れませんでしたし、悟られないようにしてきましたが、肝臓の名医がいるといわれた市民病院でも治療らしい治療もない中で、三多は自分のガンは、ももはや治療の方法はないとの自覚を持つに至ったと思います。
そして小屋さんに葬儀の依頼をした。もしも、わたしがこの時葬儀の準備をしていたならば、わたしと子どもたち、そして三多本人も、その後に展開する想像を絶するような異様な事態を経験せずにすんだはずです。
しかしわたしは、三多の死をめぐって、異様な工作が進行していようとは全く夢想だにしていませんでした。つまりは、葦書房をめぐっての工作ということですが、いくら死亡保険金の1億4000万円が三多の死後に入るとはいえ、大借金も残されています。
にもかかわらず、葦書房を狙う人々がいるとは想像不可能でした。この異様な工作に気づかされたのは、次の、早良区のはずれにある川浪病院に移る前後の頃からでした。
小屋さんの申し出を断ってからしばらくして、三多から、全部三原さんに頼んであるから心配しなくていいよと言われました。その時は余り深くは考えませんでしたが、全部とは葬儀のみならず、子どもたちのことも含めた三多の死後の一切についてだったと思います。
三原さんは、わたしが電話して以降、北九州から通勤して、葦書房の経営に関与されるようになりました。いざという時には死亡保険金の入ることも聞いたのだと思います。やがて福岡に転居され、本格的に葦書房の経営に携わることになりました。
この保険金については、わたしは三多の生前、かなり前に、三多と付き合いのある業界筋の方の奥さんが保険の勧誘をなさっていたので、その方の勧めで入ったと聞かされていました。金額なども聞かされていましたが、その保険金に群がる人がいようとは、最期の場面になるまでは考えもしませんでした。
市民病院では、石風社の福元満治さんにもお会いしました。長い間、出したいと思いながらも資金の工面がつかず、何年もの間、作業途中(紙型まで作成済みだと三多から聞いていました。)でストップしたまま印刷所に保管されていた『水俣病事件資料集』を、三多は病床の中から出版を決断したのですが、これがが事の発端でした。
当時の葦書房には「資料集」編纂の拠点であった熊本との繋がりのある人が皆無でしたので、かつて熊本を拠点に活動していた福元さんに頼んだようですが、三多からは「お前からも福元さんに頼んでおきなさい」と言われ、福元さんに「よろしくお願いします。」と頭を下げました。
(*紙型とは、今では死語になっていますが、現在のDTP的な印刷イメージからすると、少し手間はかかりますが、印刷可能な版下に近い。)
福元さんは元葦書房の社員でしたが、色々あって辞めて以降は、三多は福元さんとは疎遠な関係にありましたので、人材がいないとはいえ、三多が福元さんにこの重要な仕事を依頼したことには正直驚きました。
印刷所が長年に渡ってストップしていた印刷を再開したのは、三多が自らの死亡保険金を担保にしてこの大事業の敢行を決断し、印刷所もそれを受け入れたからだろうと思います。
しかしほぼ完成に近い、版下(印刷可能)状態にまで作業が進んでいた『水俣病事件資料集』が刊行されたのは、三多の死後、2年以上も経ってからですので、三原さんがゼロから成し遂げた仕事だと思われているはずです。刊行後は大評判になりましたが、三多の残した仕事であり、三原さんだけの手柄ではないことも書き添えておきます。
ということで、名前改竄で使われた福本は、福元さんとは一字違いの「フクモト」でした。なぜこの名前が使われたのかは今現在も想像もつきませんが、一字違いとはいえ、同音名を使われた福元さんは迷惑至極に思っていることと思います。
一気に完結させて公開するつもりだったのですが、余りにも長すぎます。お読みいただく場合も大変だと思いますが、書いているわたしも、心身共にやや疲れが出てきております。書きながら、当時のことが思い出されてきて、夜も眠れないような日も出てきましたので、少し休憩を入れることにしました。
以上のような事情ですので、ここまでを前編として公開いたします。