品田東大教授への疑問

馬に関する箇所、かなり訂正しております。⇓(5/11)

天皇皇后両陛下のご即位も滞りなく終わり、令和が始まりました。ご即位に際し、国民の多くにとっての一番の気がかりは、雅子さまのご体調だったと思いますが、非常にお元気そうなご様子に加え、凛とした佇まいでご即位に臨まれていた雅子さまのお姿には、国民の多くは心から安堵と喜びを感じたと思います。皇位継承者の減少という深刻な問題は抱えてはいるものの、大きな喜びの中で令和が始まったことには素直に喜びを共にしたいと思います。

とはいえ、全国民が同じ思いを共有しているわけではないことも事実です。異論が出るのは民主国家の証し、大いに歓迎したいと思います。そして異論や批判への反論や批判もなされてこその民主主義です。わたしが見聞きしたごく限られた範囲ではありますが、看過しがたく思ったのは、令和の出典になった万葉集に対する批判です。4月30日の午後6時台のNHKラジオニュースに、東大の万葉集専門の教授が出演し、万葉集こき下ろし論を展開していました。初めて耳にするお名前は把握しづらいですが、ネットで調べてみると、品田悦一(しなだよしかず)教授とのこと。

ついでに、品田教授が朝日新聞に寄稿したという「令和」批判文(リンク先の中程にあり)も発見しました。他にも同じ東大教授の、本郷和人氏も令和批判をしているそうですが、こちらは詳しい資料はないので批判の内容は詳しくは分かりませんが、どうやら「令」の字がよろしくないと批判しているらしい。ともあれ本郷氏の批判は、品田教授の批判ほどには激烈なものではないようですので、品田教授の批判から見ていくことにいたします。

品田氏は、朝日新聞では「令和」批判を披露し、NHKラジオのNラジでは万葉集そのものの全否定かとも思わせるほどの、激しい批判を展開していました。まず朝日新聞寄稿の批判文は、上記リンクをご覧いただくとお分かりのように、出典となった梅花の宴で詠まれた歌の数々には、権力者の横暴を許さないという、旅人の激しい権力批判の意が込められているという。選ばれた歌の配置、すなわち文脈と、当時の「長屋王の変」に象徴されるような政治状況を踏まえて読み解くと、「権力の横暴は許さない!」という権力批判こそが、梅花の宴の歌に託された真意だとのことです。

長屋王の変は729年に、王権簒奪を企んだ藤原一族によって、藤原氏に対抗していた長屋王とその一族が謀殺された事件ですが、ライバル排除のためには、陰謀をでっち上げて惨殺する藤原氏の横暴に安倍総理を重ねるとともに、旅人の名を借りて、「権力の横暴は許さないし、忘れない」とのメッセージを安倍政権批判として発するところに、品田論文の最大の狙いがあるようです。

新聞記事の短い文章なので、品田氏も十分には自説を展開することができなかったのかもしれませんが、何かものすごい飛躍がありすぎる、つまりは論拠薄弱な論のように思われます。品田氏は大学教授でありながら、限られた字数なりにまとめる能力もないのかとさえ思われます。しかし品田氏は、NHKラジオでは自分は40年間も万葉集を研究してきたし、東大でも教えてきたとのことを繰り返し口にしていらっしゃいました。素人の批判など受け付けないぞとの威嚇にも聞こえましたが、国文科出身でありながら、万葉集の全首をきちんと読んだこともない浅学非才の身ながら、あえて疑問を呈することにいたします。品田氏の寄稿記事は、全編万葉集貶(おとし)め意欲満々、それどころか貶め意欲があふれかえって行く場がないほどの勢いをもって書かれていることだけはひしひしと伝わってくる、前代未聞の奇文であることだけは疑いありません。

この貶め論の骨子は次のとおり。まずは、令和の典拠となった万葉集「梅花歌」序の出典となった漢籍と比較することで、旅人以外の万葉歌人をけなすこと、つまりは日本の伝統的和歌を貶めることにあります。品田氏の激しい非難ぶりからは、過剰なまでの感情的非難が伝わってきます。具体的にいえば、原典拠となった漢籍には、うつつ世の歓楽を享受しながらも、その背後には深い無常観が潜められているが、梅花の歌を披露した太宰府の役人たちは、漢籍も知らない無知な輩のごとく見なされ、ただ梅花を愛でながら、暢気に眼前の歓楽に身を委ねているだけである。全く深みがないと批判。その一方、旅人だけが、古い中国の賢人や文人同様に、人の世の無常を歌に託しているとの趣旨の批判が展開されています。以上は言葉足らずの品田文の不足をかなり補って、教授の批判の趣旨をまとめたものです。

旅人は万葉集を代表する第一級の歌人であることは万人の認めるところだとは思われますが、宴で披露された太宰府駐在の役人や国司たちの歌を、宴の典拠となった漢籍や旅人と対比して、深みがない、暢気だと批判する品田氏の狙いは何か。結論から先に言いますと、藤原一族の陰謀によって殲滅された長屋王の無念というか怨念を旅人が共にし、死者長屋王に代わって藤原一族を永代に渡って呪詛するぞといった、恨みの思いが旅人の歌には潜んでいるということのようです。何かおどろおどろしささえ感じさせられますが、批判文1批判文2批判文3と3分割されて公開されている品田氏の批判文を読めば、確かにおどろおどろしさが伝わってきます。しかも矛盾をモノともとしない突進力まで伴っています。

そのクライマックスは、梅花の宴で披露された旅人の歌をめぐる氏の解説でピークに達します。その歌とは以下の2首です。

わが盛り いたくくたちぬ 雲に飛ぶ 薬食(は)むとも またをちめやも(847)・・・わたしの身の盛りはとうに過ぎてしまった。空飛ぶ仙薬を服用しても若返ることはありえない。(久本注:「をつ」は元に戻る、若返るの意。)

雲に飛ぶ 薬食むよは 都見ば 賎(いや)しきわが身 またをちぬべし(848)・・・空飛ぶ仙薬を服用するより、都を見ればまた若返るに違いない。(以上、現代語訳も含め品田氏文より。音数切りは久本)

847,848と続いて披露された旅人の歌は、両者ともに相互に密接に連関したものであることは、説明不要でしょう。しかもこの旅人の2首は「員外思故郷歌両首」との詞書が掲示されています。WordPressは返り点が打てませんが、「思」の下に「二」が、「故郷」の下に「一」の返り点がついています。返り点の位置は、この2首が掲載されている品田氏の批判文2をご参照ください。

2首の歌の内容そのものから、また詞書からも、旅人のこの2首は奈良の都に対する強い望郷の歌であることは明々白々です。太宰府のお役人たちが披露した歌は、全て梅花を愛でる歌ばかり。その後を受けて登場する旅人の望郷歌2首。「員外」(付録)として掲示されているのは、その前の歌群とは趣を異にしていることを表したものだと思われますので、確かに品田氏の指摘するように、旅人のこの2首と比較するならば、その前の歌の読み手たちは暢気と言えば暢気ともいえますが、品田氏が援用する文脈論に拠るならば、両者の対比はむしろより一層、旅人の望郷の思いの強さを引き立たせているともいえるのではないか。

しかし品田氏は、旅人の歌が互いに呼応する関係にあるとは見なさず、それぞれ独立して解釈を加えています。847番の歌は、「人は老いを避けがたいという内容を引き込んでみせている」歌だとのこと。つまり847番歌の主題は、老いだということになります。「しかも、ここには強烈なアイロニーが発せられている」のだそうです。旅人にとっては、長屋王一族が死を余儀なくされて藤原氏の勢力が伸張しつつある都は、かつての都ではなくなっており、848番歌の「都見ば」の仮定が成り立たない状況下にあったからだという。

2首を分離しているだけでも異様ですが、さらに何やら支離滅裂な解釈まで加えられていますので、素人流の反論、批判も空しく思えてくるほどです。しかも品田氏はさらに飛躍し、小野老の「あおによし 寧楽(なら)の都の 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」(382)の歌も旅人は見たに違いなく、つまりは華々しく栄える奈良の都の様子を知った上で、848番の歌を詠んだのであろうと推測を加えています。この歌と旅人の848番がなぜ関連づけられるのかは全く不明。さらにあちこち巻をまたいで、長屋王の変を読者にアピールする仕掛けが存するとも書かれています。

しかし旅人はこの後、長屋王亡き後の都に戻り、聖武天皇の下でさらに出世しています。ただ不運なことには、それから間もなく、旅人は病魔に襲われて死去しますが、品田氏は最晩年の旅人には触れずに、「権力者への嫌悪と敵愾心が潜められており」これこそが、令和にこめた旅人のメッセージだととおっしゃっています。何やら新興宗教のご託宣のような感じさえしてきます。

以上、品田氏の寄稿記事に沿って疑問や感想を綴ってきましたが、疑問はさらに爆発しそうなほどに膨らみます。実は品田氏が冒頭紹介しながらも、評価としては完全に無視した、梅花の宴で披露された歌は32首あります。加えて、旅人の望郷の歌2首とさらに「後追和梅歌四首」が続きますので、以上の合計38首が「梅花序」のグループとして編纂されたものであることは、万葉集刊本を見れば一目で分かりますし、品田氏も38首を全体で見るべきだと指摘しています。

にもかかわらず、品田氏は「梅花序」グループの歌38首のうち、旅人の「員外」歌2首しか評価していません。余りにも変です。最初の32首の中には、宴の亭主・主宰者である旅人本人の歌をはじめ、山上憶良や「あおによし」の作者である小野老や沙弥満誓など有名な歌人の歌も並んでいます。さらに、最後に追加された梅花の歌4首は、全て旅人の梅を愛でる歌ばかりです。32首中の旅人の歌も含め、いずれも美しい梅花を愛でているのが基本軸となっています。亡き妻の不在を嘆く思いも託されている歌もあるとはいえ、権力への怒りなど、微塵も感じられませんし、そんな解釈など入る余地は毛ほどもありません。

「梅花序」の歌は、「権力者への嫌悪と敵愾心が潜められて」いるとの解釈は、妄想としても成り立たないのは明白すぎます。品田氏の頭には、なぜこのような妄想にもならない曲解が生まれるのでしょうか。よくもまあ、こういう人物が東大教授が務まるものだと寒気を覚えます。

しかし品田氏の曲界はさらに昂進しつづけます。万葉集は、天皇から庶民まで、身分の差を超えた歌が収められている希有な歌集であるとの定説まで全否定しています。朝日の寄稿文にはこの定説を覆したのは品田氏ご本人だとのことが、自慢気に披瀝されていますが、全否定する根拠はまったく示されていません。高校生向けに開催した講義録を読みなさいとおっしゃっていますが、とても読む気はしませんね。

ただNHKラジオでは、この定説全否定に焦点を当てた話をされていましたので、根拠らしきものも話されていました。一つは、教育もない文盲の下々の者には、五七五七七の定型に沿った歌など作られるはずはないということ。二つ目は、名もない庶民のものとされてきたらしい、馬が登場する歌を例に挙げ、当時は馬は非常に高価で、今の貨幣に換算すると2000万円ぐらいはするような、庶民の手には届かない高価なものであった。ゆえに庶民の歌ではないとの論法を披露されていました。

馬に乗ってやってくるはずのツマ(夫)がまだ来ないと、馬の気配がしないかと、聞き耳を立てながら嘆いている読み人知らずの歌がありますが、その歌なのか。あるいは、馬に乗ってやってくるツマ(夫)が毎夜きてくれたらいいのになあ、という極めて素朴な相聞歌もあります。また、よその夫は馬に乗っているのに、長旅に出る自分の夫が徒歩であることを嘆き、妻が自分の鏡(当時にあっては貴重なものであったはずですし、女性にとっては自分の分身のような大事なものであったはず)を売って馬を買ってくださいと呼びかける長歌などもあります。

他にも馬が読み込まれた歌はいくつもあるかと思われますが、戦場ではない平時に、貴族が馬に乗るのだろうかとの素朴な疑問を感じます。ただ、馬の埴輪も古墳から多数出土していますし、日本各地から馬具も多数出土していることからすると、馬は貴重な移動手段として使われていたはずですね。特に豪華な装飾馬具は戦でのみ使われたとは思えませんので、平時においても、高位の貴族も馬に乗っていたと思われます。平安安時代では貴族の乗り物としては牛車がよく使われていましたが、馬に乗った貴族の姿を描いた絵ものもありますので、それ以前の時代でも、貴族たちは移動手段として馬を使っていたとみるべきでしょうね。(5/11)

しかし貴族が馬に乗っていたからといって、庶民は馬には乗らない、乗れないということにはならないはずです。品田氏は2000万円もする馬を庶民が買えるはずはない。ゆえに、馬の出てくる歌は全部貴族が作った歌だ!と主張なさいます。奈良時代ともなると、古代的な市場経済が成立していたのかもしれませんので、馬や牛などの家畜類も売買の対象(商品)になっていたのかもしれません。品田氏の説はそれを前提にしているわけですが、この当否についてまでは分かりませんので、その前提で考えますと、まず当時、馬はこれほど高かったのかとの疑問が出てきます。

幸いこの疑問に対する回答が、わたしが学生時代に買った岩波書店刊の『日本古典文学大系・万葉集』の解説に出ていました。詳細を省いて概略的にいえば、馬の値段は馬の等級でランクづけされており、稻束450束から300束だという。稲1束は現在の精米に換算すると約2升だという。1升はお米により多少重さは異なりますが、1升=約1.5㎏。

馬の値段を現在のお米の量に換算すると、1350㎏~900㎏
金額換算(5000円/10㎏)67万5000円~45万円
解説では今から五十数年前の、同書刊行当時の米の量目表示(1升)と値段で金額換算されていますので、この部分は1升=1.5㎏、5000円/10㎏で換算しました。岩波書店では近年は反日路線が強化されているとはいえ、古典にまではまだ魔手は伸びていないはずですが、東大教授の万葉学者ということで、品田路線に変わる可能性もなきにしもあらずで心配です。

余分な説明が入りましたが、以上が当時の馬の値段であったということです。庶民でも十分に手の届く値段です。これは当時(飛鳥・天平・奈良時代)の資料を基にした計算方法ですが、その出典を示すと、改竄や破棄がなされそうですので詳細は書きません。品田氏は何を基準に2000万円とされたのか不明ですが、わたしの上記の計算は明確な資料に依拠したものです。上記の金額は現在の貨幣価値に換算した金額ですので、車の値段と比べてみても、乗り物や運搬手段の値段としてはかなり安といえそうです。とはいえ、庶民の中にも、馬が買える人もいれば買えない人もいるという格差は当然あったわけです。しかし格差はありつつも、馬を買うことのできる庶民もいたことは紛れもない事実だと思われます。(5/11)

さらに反論資料を示すことにいたします。「日本書紀」皇極天皇3年(644年)7月、東国の富士川で、今でいう宗教詐欺めいた事件が起こったことが報告されています。ある男が、お告げに従って常世神に捧げ物をすれば、金持ちにもなれるし、老人は若返ると触れ回り、家の財産を全て投げ出す人々が続出。当然のことながら、何一つご利益はなし。まるで現代の新興宗教詐欺にそっくりの事件が、600年代に発生したわけです。この詐欺に遭って、全財産を投げ出す羽目になった民衆の中には、酒や野菜の他に六種の家畜まで差し出した者もいたと書かれていますが、その6種の家畜とは、馬、牛、羊、豚、犬、鶏です。当時の庶民はすでに、これだけの家畜を飼っていたわけです。

つまりは身分の低い人間が馬を飼うのは、当時にあっても特別のことではなかったわけです。しかも、庶民からこれらの家畜まで巻き上げた詐欺師までいたということは、一般民衆の生活が地を這うような悲惨きわまりないものではなく、庶民が詐欺師の標的になるほどの庶民なりの財産を持っていたということでもありますよね。現代でも、資産家の高齢者が詐欺グループに狙われるのと同じような図式ですね。日本の高齢者がみな、生きるか死ぬかのようなカツカツの生活をしていたならば、オレオレ詐欺など生まれるはずのないことは子どもにも分かる道理です。同じことが600年代の庶民にも当てはまるわけです。

以上で、「馬」を介して、当時の庶民には歌を作る能力はなかったとする品田氏の判断には、全く根拠のないことは十分に証明できたかと思います。次はもっと一般的に、庶民には五七五七七のような定型歌を作れるはずはないという指摘の正否について考えてみたい。

庶民に限らず、日本人の言語生活の実態については、漢字移入後の文字記録を基にせざるをえないという制限はあるものの、漢字移入後の記録からも、それ以前の言語生活の様子を考察することは十分に可能です。とはいえ、わたしは上代文学の知識は乏しく素人同然ですので、ある意味直感的な批判になるかもしれませんが、品田氏の余りの暴論には反論せずにはおられませず、恥をかくかもしれないと思いつつも、あえて反論させていただきます。

万葉集が成立したのは奈良時代末期ですが、収録されている歌の作歌年代は4世紀頃から8世紀後半頃までと、450年間もの長きに渡っています。記紀歌謡などの、口承によって伝えられてきた古い伝承歌なども含まれていますので、作歌年代もまとまった文字記録が普及する以前のかなり古い時代にまで遡るわけです。品田氏は、これらの古い伝承歌謡についてどう考えておられるのかは分かりませんが、ラジオでは、庶民の歌だとされている歌は貴族が代作したものだと主張されていましたので、伝承歌謡には余り注目されていないのかもしれません。

しかし漢字到来後、仮に貴族階級が猛烈に勉強して漢字を習得した後に、その漢字を使って何か日本的な歌のようなものを創ろうとしても、即創れるのかといえば、それはほとんど不可能であることは明らかです。文字移入以前に、日本人の間で日常的に歌を詠む習慣があったればこそ、文字を手にした人々が、それまでは口承で表出するしかなかった歌を文字に記すという行為に移ったと見る以外に、この大量の歌の集成に至る流れはありえないはずです。

文字はあくまで手段にすぎません。例えば、文字を覚えたばかりの子どもが、その文字を使って何か意味のある言葉の塊、歌や詞のようなものを書き記すことができるかといえば、特殊な例を除けばほとんどありえません。特殊に超人的な能力をもった子どもが現れる可能性はゼロとは言えないものの、群をなすほど現れることは100%ありえません。

文字が単なる手段ではなく、人間に強力な作用を及ぼす力をもつに至るのは、書き手の精神的世界が文字を使って刻印されているからです。その精神的世界とは、簡単に意味と言いかえてもいいかもしれません。例えば、文字表記されたものとはいえ、意味をもたない、「あいうえお」の五十音や「ABCD」のアルファベットなどの文字列だけでは、人間にはほとんど何の作用も及ばしません。

ただ、文字を習い始めたばかりの子どもの中には、これらの文字列を見ると、ある種のプレッシャーや嫌悪感を覚えることもあるかもしれませんが、それは、嫌がる子どもに、むりやり文字を教えようとする、親や大人の行動によって引き起こされたもので、五十音やアルファベットの文字列から発せられた感情的作用ではありません。

つまり、万葉集に収録されている大量の歌群の背後には、文字使用以前からなされていた、歌垣のような、口承によって歌を詠み合うという長い歴史があったということです。口承によって歌を詠むという行為は、個人の単独行為ではなく、その歌を聴く相手の存在なしにはありえなかったことは言うまでもありません。また口承による歌は、ある集団なり共同体なりが共有しなければ、後の世に伝わらないことは自明です。つまり、文字使用以前の古い口承歌は、集団や共同体の共有歌として伝承されてきたものだということです。一言でいえば、民謡と呼ばれてきたものですが、この民謡なしには、文字以前の歌の発生はありえなかったであろうことは言うまでもないでしょう。逆いえば、民謡の存在があるがゆえに、文字を知らない庶民でも歌を詠むことはできたわけです。

事実、古事記や日本書紀には、名もない身分の低い民が歌を披露する場面もいくつも登場します。天皇や王子の歌にも、そうした民謡の反映があるとの指摘がなされている例もあります。万葉集にもそうした歌も収録されているわけですが、東歌や防人歌は、その部立から民衆歌に焦点を当てた集だと見なされてきたわけです。おそらく品田氏にはこれらも貴族の代作だとの映っているのかもしれんが、貴族の歌作そのものが、文字以前の口承歌、口承文芸の伝統なしにはありえなかったことは、すでに述べたとおりですが、その意味では歌を詠む能力においては、貴族も庶民もほぼ同じようなレベルであったはずです。それを証明するような場面に、記紀歌謡が登場しています。

つまり、万葉集には東歌や防人歌をはじめ、庶民が自ら詠んだ歌も収録されているという従来の定説は、事実に依拠したものであり、この定説を否定している品田説こそ、万葉集の実相を完全に無視した、極めて恣意的な謬説だということです。しかも許し難いのは、その論拠薄弱な支離滅裂な否定論から判断すると、万葉集の価値を貶めることのみを目的に、非学問的な暴論を厭わぬ手法で万葉集否定という目的を達しようとしていることです。

品田氏によると、近々、お仲間といっしょに万葉集否定論を出版する予定だそうですが、もしそうであるならば、その出版社は、編集能力の低劣さを満天下に晒すことになることを覚悟すべきです。この支離滅裂な品田説をよしとする学者がご本人以外にもいることも驚愕ですが、令和発表後、品田氏が東大で「令和講義」を開いた際には、普段の講義では5、60人のところ、200人以上もの大勢の学生が押しかけ、教室に入れなかった学生は立って講義を聴いていたそうなので、東大生の多くがこの品田流万葉集否定論を聴いたことになります。専門の万葉学者の説を疑うような学生はほとんどいなかったはずで、若い秀才たちの頭は品田氏に洗脳されたまま、社会に巣立っていくことになります。のみならず、品田氏の扇動により、洗脳は高校生にまで及んでいるらしい。ひょっとして教科書にまで!!???

おそらく、少なくとも東大には、有無を言わさぬ強引さで自説を認めさせようとするこの品田氏に対して、正面から反論したり、批判したりできる教授陣はいないのではないか。この非学術的な品田氏のような人物が万葉学者だと威張っていられるのは、東大をはじめ国公立大学から国文科や中国文学や日本史学や東洋史などの、というよりも、日本国家や日本文化成立の歴史や古文書やあまたの作品群や言語を研究する文学部が廃止されたことに起因します。廃止後、国文学や日本史、中国学などを学んだり研究する部門には、ある目的をもった人や特定の傾向をもった人々が集まりやすい。

つまり、品田氏のように根拠なく日本の文化遺産を否定したり、日本の歴史は韓国が作ったという謬説を唱えたり同調する偏向学者が集まりやすいということです。同調できない学者がいても、絶対数が激減している上に、それぞれ単独で研究せざるをえない環境ですので、物理的に声のでかい方、無知であることに無恥であるような強心臓の学者の説が覇権を握りやすくなっているわけです。その成果の一つが品田東大教授による、万葉集否定論だということです。

しかも品田氏によれば、品田氏の否定論鼓吹努力の甲斐あって、今では、万葉集が天皇から庶民までの万人の歌を集めた歌集だなどいう説を唱える学者は皆無だとのこと。この無知を恥とも思わぬ品田流バズーカ砲を前にすると、誰もがその説に服従せざるをえなくなったのか、あるいは品田氏同様に無知ゆえに心底その謬説に盲目的に従っているのか、その事情までは分からぬものの、大学改革の成果の一つが品田東大教授に象徴されています。

最後に話題を変えて、北朝鮮に一言。北朝鮮が何やら「飛翔体」(奇妙な表現ですね。)を飛ばしたらしい。今日の米軍の発表によると、弾道ミサイルだったそうですが、タイミングからしても、この連続発射は、明らかに韓国救済が目的ですね。というのは、最初の発射直前には、前々から問題視されてきた、韓国による北朝鮮に対する瀬取り支援に対する非難が、国連やアメリカでも公然となされ始めていたからです。しかし、最初の一発で韓国非難は一気に消滅。それどころか、韓国の文大統領はトランプ大統領から北朝鮮への人道支援の公認まで得ることに成功しています。

そもそもイランに比べると、トランプ大統領の北朝鮮に対する態度は甘過ぎます。北に対する規制継続を唱えながらも、金王朝が存続する程度には「人道支援」は認め、促しています。独裁か反独裁かで世情大揺れのベネズエラに対してアメリカ(トランプ大統領)は、反民主主義であることを唯一の理由に、独裁大統領に対抗している国会議長を支援していますが、反民主主義の極地にある北朝鮮に対してはきわめて融和的です。

そして最大の謎は、北のミサイル連射を可能にするほどの資金はどこから提供されたのか、ということです。規制緩和を求めている中国やロシアといえども、北にミサイル発射のための資金まで提供することは100%ありえません。とはいえ、アメリカが資金提供することもありえません。しかし、アメリカの黙認なしには北のミサイル連射はありえないはずです。では、誰が北に資金を提供したのか。

飛躍しすぎると思われるかもしれませんが、「トモダチ作戦」で被曝した米兵支援のために、小泉元総理が集めた資金の一部が北に渡ったのではないかと疑っています。支援金は3億円も集まったそうですが、肝心の米兵の手には未だ一銭も渡っていないという。であるならば、寄付者に全額返すべきですが、おそらく寄付者にも一銭も戻らないはず。おそらく、小泉元総理も関知しない不明な使われ方をしているのではないか。

この件に関してネット検索したところ、唯一見つかったのは、元官僚の天木直人氏の 破綻した小泉元首相の「トモダチ作戦」被ばく米兵救出劇 のみでした。今年3月に発売された「週刊文春」の記事の概略紹介があり、寄付は3億円集まり、米兵救援のための基金を設立したが、米兵には一銭もお金は渡っておらず、なぜか現在は2.5億円が残っているという。つまりは5000万円ほどが消えているらしい。事務費用にしては巨額すぎますので、詳細を知りたく文春オンラインにアクセスしましたが、過去記事は検索できませんでした。

おそらくこの寄付金は、小泉元総理も想定しなかったような使われ方をされる運命にあったのではないか。そしてその一部は、北朝鮮支援にも回っているのではないかということです。さらに妄想をたくましくすれば、小室圭氏(小室親子)支援にも使われているのではないかと思われます。弁護士事務所が支援しているとの額面どおりの報道がなされていますが、現実的に考えて、仮の想定だとしても100%ありえないのは明白です。弁護士事務所以外から資金が出ているのは明白です。

以上の動きは一見まったく無関係に見えますが、キリスト教系団体を媒介にすれば、トランプ大統領の私的な動き(アメリカ政府としてではないという意味)も含めて全てが繋がってきます。小泉元総理の姉上は確か、キリスト教徒でしたね。さらに間口を広げるならば、日韓両国の新旧両キリスト教界で存在感を高めつつある韓国人集団や、統一教会も絡んでいる可能性もありそうです。となれば、小泉元総理との接点はより明確になってきます。

小泉元総理は寄付金を集めた責任上、少なくとも事務経費を除いた全額が被曝米兵の手に渡るまで責任をもって見届けるべきではありませんか。そうでなければ、寄付者の了解を得た上で、天木氏の言うように、福島被災地支援に全額を寄付すべきです。

安倍総理も、拉致問題があるとはいえ、北にはきわめて融和的になっていますが、北朝鮮は日本人を誘拐拉致して、その拉致被害者をネタに巨額の身代金を要求し、他国の銀行からは巨額の資金を盗み出し、日本の仮想通貨交換所からは500億円超の資金も盗みだした大犯罪国家です。しかも麻薬密売という伝統産業は、今なお北の主要産業として健在です。国家としてのプライドも何もないというが、北朝鮮の実態です。イランもベネズエラも、北のような国家犯罪にまでは手を染めていないはず。トランプ大統領も安倍総理も、そして中露も世界も、この恥ずべき北朝鮮の消滅に向けて心を合わせるべきではありませんか。北朝鮮消滅には、武器は無用のはずです。

 

「絣ラボ」ロゴ-s毎回このサイトで「絣ラボ」をご紹介することになってしまいましたが、5月8日に「絣とIKat」を公開しました。絣の写真も「久留米絣1」に追加しております。36枚公開中。

 

なお近々、筑豊炭鉱関係の催事が開催されるそうですのでご紹介します。

既刊本広告1 「炭鉱をフィーチャーするパーティー」GTTON NIGHT!!!!
出演:民謡クルセイダーズ
5月18日 16時30分オープン 19時開始 於:青山・月見ル君想フ
2の映画の前夜祭として開催されるパーティーだとのこと。

2 映画「作兵衛さんと日本を掘る」 5月25日(土) 於:東中野ポレポレ
7月には福岡市でも上映されるそうです。
弊社刊の『写真万葉録・筑豊』の写真も映画で利用されているとのことです。