「葦の葉ブログ2nd」より転載
新しい元号、「令和」が発表されました。なかなかいい名前だと思いますが、「万葉集」という初の国書が出典になっていることも、大きな話題になっています。確かに万葉集は現存するわが国最古の歌集であるばかりか、詠み手も天皇から名もなき庶民までと、身分の違いを超えた幅広い層にまで及んでおり、その点ではまさに世界に例のない歌集です。日本国民の多くが誇らしく思いつつ、この新元号を受け入れたのも当然だと思います。しかも「大化」から「平成」まで、元号は全て中国典籍を典拠としてきた長い元号史の中で、今回が初の国書からの採用。
何やら明るい未来が開けそうな気分も湧いてきそうですが、しかしよくよく考えると、「万葉集」そのものも中国文化の影響下で成立したという側面のあることも確認すべきではないかと思います。「万葉集」が万葉仮名という漢字を使って書かれたという表記法の問題だけではありません。万葉仮名はむしろ、異国の文字を使って日本語表記に挑戦した日本的工夫の結晶だ思われますが、漢字伝来以前から日本各地で連綿と受け継がれてきた口承文学を包摂しつつ、中国文化の影響下で編まれたのが「万葉集」であったというのが、基本的な特性だと思います。
ことに「令和」の出典となった「梅花の宴」の場面は、当時の中国文化の粋を日本に反転したものだとは、専門家も指摘している通りです。太宰府学の最高権威者ともいうべき森弘子氏は、梅の木も中国から移入されたものだと指摘しておられます。当然のことながら、その梅を愛でて宴をはるという文化的風習も、中国伝来のもの。ちなみに桜は日本に自生する花木ですが、「万葉集」では梅を詠んだ歌は桜の3倍、続く平安時代に編まれた初の勅撰和歌集「古今和歌集」では、梅と桜の数が逆転し、ついには「花」といえば「桜」を意味するほどに、桜が梅を圧倒するに至ります。
ということで「万葉集」は、「令和」の出典場面に象徴されるように、中国文化の影響を受けた側面も宿しているということです。しかしこれは、日本最古の「万葉集」までもが中国文化の影響を受けており、日本独自の産物ではないとけなすつもりで指摘したものではありません。日本文化は中国文化なしには語れないという、厳然たる事実を指摘しているだけです。
ただしここでいう中国文化とは、はっきりいって現在の中国とは無縁だと言っておきたい。現在の中国は共産党の教義を絶対的だとみなし、政治、経済のみならず文化に至るまで、共産党政府のフィルターを通して良否が決められるという、共産党による絶対的な体制が貫徹されています。おそらく中国では、古典研究ですら共産党の意向抜きにはできないのではないか。
ITやAI分野Iでは、中国はアメリカを脅かすほどに力をつけています。危機感を覚えたトランプ政権は中国に対して経済戦争をしかけ、中国の抑え込みに躍起になっています。当然のことながらIT,AI分野では、中国は日本をもしのぎつつありますが、目下のところ、現代中国の先進性は特定分野の科学技術に限定されたもので、かつての中華帝国が有していたオールラウンドな文化の先進性とは全く異質です。
ということで、以上のような現代中国とは全く無縁であるとお断りした上で続けると、日本文化の成り立ちや特性を深く知るためには、中国文化(歴史・文学・宗教を含む思想・美術等々)の研究は必須不可欠だということです。
「万葉集」は長い歳月をかけて編纂されたといわれていますが、編纂が始まったのは、630年に始まった遣唐使派遣以降のことです。以来、遣唐使派遣は264年も続きますが、新羅海賊の襲撃や中国の衰亡もあり、894年に廃止。時あたかも平安文化の隆盛期、いわゆる国風文化が華々しく開花します。「古今和歌集」や「枕草子」、「源氏物語」など、日本の古典を代表する作品が続々と誕生します。しかしこれらの「国風文化」も、中国文化の影響下で誕生したものです。清少納言や紫式部などの当時の女流作家たちも、日本的な精神性に加え、中国典籍に依拠した深い教養と知識をも身につけていました。
ちなみに、遣唐使派遣以前の聖徳太子の時代には、607年と608年に、留学生を同行させて小野妹子を遣隋使として派遣しています。百済や高句麗や新羅からも様々な文物が日本に渡来していますが、学ぶ先は中国本国であったわけです。朝鮮半島諸国の文物も中国に由来するものである以上、本家中国で学ぼうというのは当然のことだったと思います。その流れが一時中断したからといって、日本文化の根底から中国文化の影響が残滓も残さぬほどに消し去られるということは、物理的にもありえないはず。ましてや大和朝廷成立以前の卑弥呼の時代はもとより、卑弥呼以前の紀元前1世紀前後の頃から日本は中国文化の摂取を続けてきたという、明白に記録に残された歴史的事実をも考えるならば、なおのこと、日本の文化・歴史は古代中国の影響抜きには語れないはずです(4/9 追記)
しかし、中国文化の影響下で日本の国風文化が花開いたということは、恥でも何でもありません。外国の文化を受容しながらも、日本固有の文化だと見紛うほどに外国文化を日本流に消化吸収してきた日本は、外国文化の影響を強力に受けながらも、外国文化に吸収されない強度を持っていたことを証明しているからです。その強度とは、日本文化が、外国文化に負けないほどの文化的な層の厚みや深さを持っていたことを意味します。そうした日本の文化は、有史以前から続く、人々の日々の暮らしの営みから生まれてきたものであることは言うまでもありません。
これほど中国文化の強い影響下にありながら、日本固有の文化を築き、保持してきたのは、当時の中国語圏では日本以外にはありません。韓国(朝鮮半島)は、中国文化の受容も表層的であっただけではなく、独自の文化も築けぬまま現在に至っていますが、韓国は国民こぞって、根拠もなく日本文化は韓国が作ったと言い募り、日本文化ではない、韓国(朝鮮)独自の文化を築くことができなかったことを、自ら世界中に告白し、喧伝しまくっています。韓国には、これぞ韓国文化だと胸を張って国内外に示せるものはほとんど持っていません。ゆえに、日本文化のあれこれを指して、日本文化は韓国が作ったと振れ回っているわけですが、韓国人にはひとかけらの恥の意識もプライドもないことを示しています。
一方、日本が受容した中国文化は、文学や仏教や思想、美術分野のみならず、非常に広範囲に及んでいます。菊や朝顔、ぼたん、桔梗も薬草として唐から日本にもたらされたものだという。お茶や麺も同様です。今や世界中で注目を集めている盆栽も中国由来だという。戦後もある時期まで続いていたお正月に舞われる獅子舞も、今も続くお年玉の風習も中国由来。また、暦が中国由来ですので当然ではありますが、暦に基づく数々の節季行事も中国由来です。ただし、暦を中国から受容しながらも、元号は日本独自で制定してきたことは強調しておきます。ちなみに韓国では、お茶は日本から移植されたもの、麺は手延べモノは存在しません。機械製麺は製造機器を使えば誰でも作ることはできますが、手延べ麺は技が必要となってくるからです。
ところで皇室の紋章であり、国章としても使われている菊が中国伝来だとは意外や意外、いささかショックではあります。しかしモノは考えようです。菊は中国伝来の植物だとはいえ、それほど深く日本に根付いていたことを意味するからです。事実、菊は庶民にも広く愛され、栽培されてきました。後には菊の懸崖(盆栽の一種)や菊人形などの造形物にまで発展。
その盆栽そのものも貴族階級から始まり、庶民にまで広く普及し、現在にまで至っています。さらには節季行事の数々も、天皇や貴族階級から始まり、のちには庶民にまで広く浸透しました。日本文化の最大の特徴は、上層階級と下層階級(庶民)との間には、明確な階級的・身分的差異は存在したものの、文化的には絶対的な断絶はほとんど存在していないという点にあると思われます。
身分差を超えた「万葉集」の誕生は、そうした日本的文化の古層を具現化したものでもあったわけですが、その背景にあるのは、両者はともに同じ神(古神道)を祈り、後には宗派は違え、仏教にも帰依するという、宗教的=精神的な基盤の共有があったからではないかと思われます。こうした階級差を超えた文化的基盤の拡がりや共有が日本文化の最大の特徴であり、他国にはない文化的強度の源泉ではないかと思います。江戸時代の、世界的にも例のないほどの驚異的な識字率や、広く庶民にまで読書の習慣が広がっていたことを示す出版業の隆盛や町人学者の輩出も、突如として生まれたもではなく、有史以前から続いてきた日本の文化的基盤に由来するものであったと思われます。
新元号の話から日本文化論めいたものに発展してしまいましたが、新元号のニュースを聞いて、いい元号に決まってよかったなあと思いつつも、報道を通じて伝わってくる元号解釈論が、何か平板、皮相だなあとの印象と、日本文化に対する認識の皮相さ、薄さに危惧を覚えました。皮相だとの印象は、新元号の背景については、公式的には安倍総理がただ一人、直接国民に向かって談話を発表しただけであることと関係しているように思われます。従来は天皇陛下の崩御を受けて新元号が制定されますので、新元号の発表は簡素、簡潔、静かにに行われてきましたので、安倍総理の直々の談話発表は異例といえば異例。であるならば、国書初となった新元号の背景についても、考案された学者直々の講話のようなものがあってもよかったのではないか。
従来のような、専門家以外は誰も知らない中国古典からの出典とは異なり、初の国書からの採用となれば国民の多くも興味をもち、その背景を知りたいと思うのは当然です。しかし知りたいという国民のその思いに対しては、政治家(総理)が受け売り解釈を披露しただけでした。考案者だという中西進氏は、当初は元号発表後にお話なさる予定であったようですが、政府が止めたのではないか。色々な報道を見ているとそんな印象がします。
仮にこの印象が事実でなかったにせよ、安倍政権の対応には、元号考案者である学者に対する敬意が全く感じられませんでしたね。採用されなかった学者や元号名に対する配慮もあったのかもしれませんが、安倍総理には、学問領域をもわたしが管理、采配するとの驕りがあったのではないか。安倍総理には中国の習近平主席風にならぬよう、切に願っています。
一方、幸いなことには、書店では「万葉集」関連の書籍の完売が続出。出典となった「万葉集」を読みたいと、大勢の人々が書店に駆けつけたようです。出版業界も思わぬ特需に潤い、日本の古典に人々が目を向けるきっかけにもなりました。新元号による思わぬ波及効果は、日本を元気づけてくれているのは確かです。
国語教育を破壊をする安倍政権 2019/4/6
しかし目下、安倍政権は日本の国語教育を破壊するような大改悪を進めようとしています。高校の国語を選択制にして、「論理国語」「文学国語」「古典探求」から選択させ、国語の総合的教育を廃止する学習指導要領の大改悪がなされようとしています。この恐ろしい国語教育破壊の企みを知ったのは、つい先日のことです。西日本新聞夕刊の「芸能欄」!に劇作家の野田秀樹氏が、この話題を諧謔的に取り上げていたのを読んで初めて知ったばかりで、体が震えるような衝撃が走りました。詳細を知りたいと思い、ネットを検索したところ、いくつもの関連ブログが見つかりました。以下は、その一部です。
「社会で必要とされる力を」高校の学習指導要領改訂案が公表 (朝日新聞記事の紹介)
[資料] 高校の新学習指導要領案、公表。気になるのは「文学国語」と「論理国語」の単位数
この改訂案は2018年2月に発表されたとのことですが、わたしが見落とした可能性はあるものの、当時購読していた読売新聞には出ていなかったようです。この改訂案の最大の特徴は、朝日新聞記事の要約にあると思われます。この記事を読んでさらに衝撃を受けたのは、高校でも新聞が国語教育の教材として使われることになるというです。新聞利用はすでに小中でも導入されていますが、高校にまで強制的に導入されるとは!朝日新聞が肯定的にこの改悪案を紹介しているのも道理です。
古典と近現代を分けるのは当然ですし、古典は必ず入試にも出ますので事実上、必須科目になるはずですが、最大の問題は、国語を「論理国語」と「文学国語」とに分け、いずれかを選ぶと高2以降は選択した科目しか学ぶことができないという仕組みになっているらしい点にあります。しかも入試には必ず評論文が出ますので、「論理国語」選択が圧倒的になり、「文学国語」は選択からはずれるはずです。こんな偏頗な国語教育を許していいのでしょうか。
というよりも、そもそも国語を「論理国語」と「文学国語」という、非日本語的なカテゴリーに分けること自体が、日本語のみならず、言語そのものに対する破壊行為だというべきでしょう。野田秀樹氏も指摘していましたが、「文学国語」の範疇に入る小説も論理性なしには作品とはなしえないことは子供にも分かる道理です。
というよりも論理的思考は、いわゆる論理的な文章の読み書きによってのみ獲得されるものではありません。近代以前はもとより、学問分野が各専門ごとに分離されるに至った近代以降を見ても、文学に傾倒した科学者も大勢います。鷗外が医者であったことは知らぬ人はありませんし、漱石門下生で、すぐれた随筆を残した寺田寅彦は物理学者。大歌人、斎藤茂吉も医者です。また、すぐれた評論(「論理国語」)を書く小説家(「文学国語」)も珍しくはありませんし、論理的文章を書くことが専業の評論家も、作家以上に文学作品やその他の芸術作品を非常に深く理解し、その美の本質を洞察する力を備えた人たちです。全国的にも名を知られた、福岡を代表する詩人の丸山豊氏もお医者さんでした(故人)。現役の著名な歌人で、皇居で行われる歌会始の選者でもある永田和宏氏は、世界的な賞も受賞された生物学者でもあります。無名のお医者さんの中にも俳人、歌人、詩人はたくさんおられます。
つまり、論理と非論理の融合によって、論理的文章も文学作品も生まれるということです。これは古今東西、変わらぬ真理ではありませんか。むしろ両者の融合によって思考の幅も広がり、深さも出てくるのではありませんか。もしも授業時間が不足するのであれば、新聞業界からは猛反発を食らうかもしれませんが、小中高とも新聞活用授業を廃止すればいいいではありませんか。
ただ多少の危惧としては、最近では、その評価が定まらぬ現存作家の作品が、文学的教材として採用されていることです。教材作品としての質の問題に加え、商業主義的な働きかけがあるのではないかとの心配があるからです。これは別途論ずべき問題として提起しておきますが、余りにも質の悪い、ひどい作品ならば、教えない方がましだともなりかねませんので、選定基準は重要な問題だと思います。
しかし国語を選択制にするという発想そのものには、国語教育を貧寒なものにし、日本人の精神的基盤を破壊しようとの意図すら感じます。20年ほど前に始まった大学大改革では、国公立大学から文学部が廃止され、日本の言語、文学、歴史を専攻する学科も廃止されました。日本文化に多大な影響を与えた中国に関する専攻科も廃止され、他の外国に関する専攻科も外国語大学以外では廃止されました。変わって、韓国研究所や韓国研究部門がボコボコと多数の大学で新規誕生。Kポップなどの「韓流」紹介受業が、国立大学でも実施されるに至っています。
特定国の研究部門を新設するのであれば、日本文化の源流研究においても、現代の政治、経済上の重要性においても中国研究以外にはないはずですが、基礎的教養すらない人々によって先導されたこの大学改革は、韓国が日本の大学や学問研究において、物理的に重要な位置を占める環境を提供してきました。物理的といったのは、韓国は内容的にはほとんど何もないからです。のみならず、何時の頃からか、就職活動が大学生活の主要部分を占めるに至った時流を受けて、就活講座までもが正規の授業に組み込まれ、単位まで与えられるという異常事態が常態化してしまっています。つまりは大学の非大学化が進行しつつあるわけですが、当然のことながら、教える側の教授陣の「軽チャー化」もどんどん進んでいるわけです。次の改元時には、こういう時流の中から、元号考案者は出てくるのかどうかも心配です。
新元号考案者としてお名前が報道されている石川忠久氏は87歳、新元号の考案者だという中西進氏は89歳。お名前不明の他の考案者の方々もおそらくご高齢だと思われます。石川忠久氏は東大文学部中国文学科、同大学院卒業、中西進氏は東大文学部国文学科、同大学院卒業です。両氏の功績は出身大学に由来するのではなく、その後の数々の研究成果によるものであることはいうまでもありませんが、大学や大学院での基礎的な研究なしには、その後の成果も生まれなかったのではないかとと思います。こういう言い方は両氏には失礼かもしれませんが、学部や大学院での研究とは、その研究を支える環境、指導に当たる教授陣や長い歳月蓄積され、国文学科や中国文学(中国学)科などで、組織的に共有されてきた研究成果などの有形無形の豊かな研究土壌なしには、研究者個人が単独で研究を進め、成果を上げることは難しいと思います。
石川忠久氏が学長を務められた国文学や中国古典研究で有名な二松学舎大学をはじめ、私立大学には旧来からの伝統を受け継ぎ、国文学・日本史や中国古典・東洋史などの、日本語や日本文学のみならず、日本文化そのものの基礎を学ぶ学科、研究科を存続させている大学もありますが、全大学数で見れば、ごく限られているのではないかと思われます。こういう環境下では、中高の国語や日本史の教員養成は非専門的で、皮相なものにならざるをえないはずです。研究者層の薄さ、人材育成の貧寒さは、日本文化は韓国が作ったという無知を恥じない、韓流謬説の強引さに簡単に取り込まれてしまいます。
改革が真に良き方向を切り開くという例は、きわめて稀だということです。明日は統一地方選挙。福岡は何だかよく分からない状況になっていますが、わたしが気になるのは他地方ながら、大阪府・市選です。府知事と市長が入れ替わって首長選に出ています。以前、橋下徹氏が用いた手法ですが、実にご都合主義的で有権者を愚弄していますね。大阪府も市も維新の会の思いのまま、どっちがどっちのトップになってもいいんだとのことらしい。彼らが大阪を完全に牛耳っているとの慢心ゆえの入れ替えっこなのでしょうが、そこまで府市が一体化しているのであれば、なぜ府市の重複事業を現行政区のまま統合するという、統合に際して最も費用のかからない工夫をしないのか、不思議でなりません。
総人口に変化はないわけですから、基本的な住民サービスにかかる費用はほとんど変わらないというのは、平成の大合併で証明済みです。区役所などの役所の支所を極端に減らせば、多少は費用も削減できるでしょうが、それでは統合の意味がありません。昨年6月の大阪北部地震では、高槻市の小学校で学校のブロック塀に押しつぶされて女児が死亡するという痛ましい事故がありましたが、このブロック塀の危険性については地震前に専門家の指摘がなされていたにもかかわらず放置されてきたという。実はこのブロック塀を改修せずに放置したのは大阪府の方針によるものだったという。予算削減にゆえです。元大阪府知事で自民党の太田房江参議院議員がSNSで暴露していたものを偶々目にして知ったのですが、マスコミでは全く報じられていません。維新の会の予算削減の正体を象徴しているのではないか。
日本はかなり遅れていますが、世界的に見れば、自治体の効率化、経費削減はIT化、AI化によって劇的に進めている時代です。長い年月に蓄積されきた行政区分を単位とする郷土的アイデンティティは、お金には換算できない価値を持っています。都構想を唱え、独善的な選挙を断行した維新の会は、それを破壊してまで、いったい何を手にしようと言うのでしょうか。
さて、自民党も驚愕発言をした塚田副大臣の辞任が発表されました。当然です。遅すぎるぐらい。この発言は事実か否かが問題ではなく、利益誘導は悪でもなんでもないことをヌケヌケと、あるいは堂々と表明したことに最大の問題があります。通常は隠していたものが、外部に漏れ、露見してしまったという流れになっているわけですが、塚田氏は、自ら自分の手柄のように聴衆の前で披露したわけです。悪いことだとの意識があれば、こんな発言はできるはずはありません。投票日直前のこの発言報道に、わたしは塚田氏は野党の回し者かと思ったほどです。それほど超異常な発言です。ただ、その場でこの発言を聞いた自民党の北九州市議は「寒気がした」と怒っているそうですので、現場の議員さんたちはごくまっとうな感覚を持っておられたことに少しは慰められました。
自民党議員には余りにも問題発言が多すぎますが、野党の政権だけはご免ですので、もっとまっとうな常識を身につけていただきたいとあえて苦言を呈しておきます。